タグ:沈黙 ( 9 ) タグの人気記事

注意深さへの気づき

ひとがひとを批評するのは好きじゃない。

批評している相手の何を知ってる?

何も知らないじゃない、そのひとのおいたちも、人生も、信条も、

と思う。

それでも、私たちは毎日、

ひとがひとのことをあれこれ、

ひととひとを比べたり、自分とひとを比べたりしながらなされる、

そのおしゃべりに、批評に、巻き込まれている。

願うならば、

その一言に

その一言にもう少し注意深さのひとかけらを持っていてくれたら・・・

「私は今から語るひとの、すべてを知っているわけじゃないけど」

そんな謙虚な気持ちを持ってくれたら・・・

その一言を私にくれたら・・・

その話を聞いている私は傷つかないのに・・・

私はあなたのおごりに傷ついている

海は私たちのおごりに傷ついている

大地は私たちのおごりに傷ついている

自然は私たちのおごりに傷ついている

動物は、原発は、社会は私たちのおごりに傷ついている

私たちはあまりにも注意深く生きてこなかったので、今、その不注意さからくるおごりに

自分たち自身が傷つき、苦しんでいる


ブログ : 「残酷さへの気づき 1」 「ことばの力

[PR]

by yogabeaware | 2011-04-26 12:15 | ヨガ的な生き方

ハンス・コパー陶芸展

この記事はブログのファンのみ閲覧できます

[PR]

by yogabeaware | 2011-04-25 01:38 | 日々。。

ヨーガ・ニドラー ヨーガの眠りについて

思いこみと
頑固と
妄想

これらは成長の障害だ

思いこみと
頑固と
妄想

沈黙はこれらを破壊する
             

文明化社会の大人として、わたしたちは知性を最も優れた規範としてあがめるが、
一方、「知性の源泉」を無視しています。
わたしたちは子供の時からそのように訓練されてきたので責められるめきではないが、
霊性の生活において探求者は、信仰・愛・帰依の崇高な感情を通じて知性を超越していかなければなりません。
霊的体験は知性を超えているため、霊性の生活で進歩するためには探求者は、
すべてを忘れねばならず、論理や理性の行動基準に従うべきではありません。
そういう理由で、しばしば探求者は子供のように無邪気であれと告げれらます。
なぜなら子供は知性の論理的主張には拘束されないからです。(スワミ・サッティヤーサンガナンダ)


知性をまとった
思いこみと
頑固と
妄想

これが厄介なんじゃないかな



ところで。。。
e0200565_10431981.jpg

ヨーガ・ニドラー(ヨーガの眠り)と呼ばれるユニークな瞑想法があります。
仰向けで、横になりながら実践するのですが、
肉体・呼吸・心を観察しそれらを目撃しつづける意識を通じて、
常識でがんじがらめになった知性や緊張を解放し超越する。。
そして最終的に自己の深いくつろぎ・本当のリラグゼーションにみちびいてゆきます。。

スワミ・サッティヤーナンダ・ジは「ヨーガ・ニドラーの序」の中でこのように語っています。

もし私が、「これが正しくあれが悪い」と言うとすれば、
あなたは私に同意するかもしれませんが、
それは知的な同意です。
あなたは同意したにも関わらず、日々の生活でそれを実行できないかもしれません。
さて、その障害とは何でしょうか?

このように理想を実践することがとても困難であるということには、何か理由がなければなりません。
人生の理想のすべては聖典の中にだけあるべきではありません。
私たちは自らの理想と共に、「生き」なければなりません。
ヨーガ・ニドラーは、私たちの考えや行動のすべての責務を負う、
内側のサイキック・心霊的な人格と接触させます。
ヨーガ・ニドラーの助けにより、私たちは自分の信じるそれらの理想を「生き」られる、
行動開始できるのです。


例を挙げると、かつて私はプロの泥棒で数百の犯罪を犯した男に会いました。
長い時間彼と語り合い、最終的に盗みを行うことは悪いことだと彼に確信させました。
彼は自分が罪人であるという感情にまで達し、私は彼を転向させた、きせきを行ったと思いました。
しかし、5年後に彼の村に戻ると彼がなお同じ仕事(泥棒)をしていることを発見しました。

なぜでしょう?
なぜなら、私が転向させたのは彼の知性で、彼の内なる自己ではなかったからです。
そのあと、私はその村に6カ月滞在し、学校で子供たちや教師たちにヨーガ・ニドラーを教えました。
その泥棒もまたそれの授業に参加し、短い期間の後、彼はその職業から離れました。


知的な確信は人間生活の一側面です。
私たちはみな、善や悪について知的に確信していますが、
と同時に、私たちが理解を必要とする全てに対し、感情的に受容的でなければなりません。
このことは、受容を妨害するものが消え、
心が静穏でひとつのなめらかな流れになったときのみ可能です。

そのときなら、心に印象付けられたものが何であれ、それは誤りを正し、運命となり、指導します。

もしあなたが、悪い習慣を持つ人を知っているならば、ヨーガ・ニドラーの実践で彼を指導しなさい。
彼が完全にリラックスするまで待ちなさい。
それからいくつかのポジティブ・肯定的な指示を与えなさい。
この受容性の頂点の時間に、彼は、あなたの言葉に聞き入ることでしょう。
無分別で落ち着かない心は従順にはなれませんが、ヨーガ・ニドラーの心は完全に従順なのです。

[PR]

by yogabeaware | 2011-03-01 10:48 | スワミ・サッティヤーナンダ

清水のように

            清水は湧き続けるがみなもはしずかだ   作品 小林孝亘 Bort  


e0200565_718424.jpg

心に言おう。
私は落ち着いていると。
私は静かで堂々としていると。

余裕があると。
静かで周りを見渡す余裕があると。

すべては受け入れられると。

いまや、わたしはこんなにも静かで、落ち着いていて、澄んで、美しく、堂々たるもの。

すべてはOK
すべてはWELLCOME
それがわたし。

「VOICE OF VIVEKANANDA」
Close your lips and let your hearts open.
Work out the salvation of this land and of the whole world , each of you thinking that the entire burden is
on your shoulders.
Carry the light and the life of the Vedanta to every door , and rouse up the divinity that is hidden within
every soul. 

e0200565_7145368.jpg

[PR]

by yogabeaware | 2011-02-26 07:28 | ヴィヴェーカーナンダ

沈黙を欲したあと

シュリ・ラーマクリシュナは弟子たちに語ります。
わが子よ。神は生きものすべてに宿っておいでになる。しかしお前たちは善い人びととだけ、親しくしたらよいのだ。悪い心の人びとは避けるようにしなければいけない。神はトラの中にもおいでになる。しかしそれだからといってトラを抱くわけにはいくまい。(笑い)お前たちは『トラもやはり神の表れなのに、どうして逃げなければならないのですか』と言うかもしれない。それに対する答えは、お前たちに逃げろと告げる人びともやはり神の現れ~なら、彼らの言うことはきくべきではないか』というものだ。

ひとつ話をきいておくれ。森の中に一人の聖者が住み、大勢の弟子を持っていた。ある日、彼は弟子たちに、すべての生きもののなかに神を見よ、そしてそれを知って、彼らすべての前に頭を下げよ、と教えた。一人の弟子が、犠牲供養の火のたきぎを集めに森に行った。突然、彼は『逃げろ!気違いゾウがくるぞ!』という叫び声をきいた。彼を除く全部は逃げた。彼は考えた、ゾウもやはり別の形で現れた神であると。それならなぜ逃げねばならないのか。彼はじっと立ち、動物の前に頭を下げてそれをたたえる歌をうたい始めた。ゾウ使いは『逃げろ!逃げろ!』と叫んでいた。しかし弟子は動かなかった。ゾウは彼を鼻でつかんでわきに投げ、行ってしまった。

傷ついて出血し、弟子は気を失ったまま地面に横たわっていた。事件をきいた師と兄弟弟子たちは、現場にやって来て彼をアシュラムに運んだ。薬の効き目で彼は間もなく意識をとり戻した。誰かが『君はゾウのくるのを知っていたんだろう?なぜ逃げなかったのか』とたずねた。『でも師が、神ご自身は人間ばかりでなく動物の姿にもなって現れているとおっしゃっただろう。だから、くるのはゾウ神さまだと思って逃げなかったのだ』と彼は言った。これを聞いて師は言った、『そうだ、わが子よ。ゾウ神さまがいらっしゃったというのは本当だ。しかし、ゾウ使い神さまがお前に、そこにいることを止めただろう。すべてのものが神の現れなのに、お前はどうしてゾウ使いの言葉を信用しなかったのだ。お前はゾウ使い神の言葉に耳を傾けるべきだったのだよ』と。(みんな笑う)

聖典に、水は神の一つの姿である、と書いてある。しかし、ある水は祭事に用いるのに適し、ある水は顔を洗うのによく、そしてある水は皿や汚れた布を洗うのにしか使えない。この最後の種類は、飲んだり祭事に使ったりすることはできない。同じように、神はたしかにすべての人~信心深くても不信心でも、正直でも、不正直でも~のハートに宿ってはおいでになるが、人は不信心な、邪悪な、不純な人とつき合ってはいけない。親しくしてはいけない。彼らのある者たちとは言葉ぐらいは交わしてもよいが、ある者たちとはそれもしてはいけない。そのような人びとからは遠ざかっているべきである。

前回のブログに、私はもっと黙っていなければならない、と書いた。
口も、心も、だ。
私が風に揺らめく炎だとしたら、その風を「なぎ」にしなければならないと感じた。
当時、はっきりとした目的はわからなく、だけど、「沈黙~Mouna」をしなければならないと感じた。
すべてが雑念、すべてが雑言に聞こえていた当時は、
げんに、おしゃべりをしたくもなく、友人と交わりたくもなく、ヨガの話も聞きたくなかった。
いらないとこは捨て、自分だけを、最もシンプルな自分を見つけたかった。
シンプルになるために沈黙することが必要だった。
静けさが必要だった。

でも、沈黙してても、やがて心が騒ぎだす。
あの人とあの人は何を楽しそうにしゃべっているのだろう?
ヨガの話かな?
なんかお得な話でもしているのかな?
乗り遅れてしまわないかな?
損してしまわないかな?
あっちはどうかな、こっちはどうかな、ワタシ、独りで、こんなカンジでいいのかな・・・

・・・こうして道を探りながら何かを求める者には「灯」が欲しいのだ。
冒頭のシュリ・ラーマクリシュナと弟子との会話は私に力を添えてくれたものだ。


        ☆       ☆       ☆       ☆       ☆ 
     

そんな時、インド・リシケシからスワミ・ヴィシュワルーパナンダ・ジが来日された。

ゆうこさんの招へいで、一か月以上に渡って、「AWARE ~ 気づきつづけること」をアーサナ、プラナヤマを通じて教えてくださった。

それは、わたしたちが詳細に、注意深く、かつ透明なまなざしで物事に気づき続けることで
その本質を理解できるというものだった。
だから、肉体や心やエネルギー、魂に気づき続ければ、その本質が自ずと見えてくるというものだった。
そしてそれは科学のように、実際に実践できるものであり、体験できることであるということを教えてくれた。
私はヴィスワルーパナンダ・ジの授業を通して「沈黙~Mouna」の重要性を体験した。
それが修行として確立されている理由に納得した。
気づきには観察者(自分)の静寂さが必要、彼の心が常に「なぎ」の状態でないと難しいということを発見した。
気づく、ということと、沈黙・静寂・空・無というものは常にセットなんだ!と発見した。

e0200565_0393656.jpg

       冒頭の引用は「ラーマクリシュナの福音」11Pより。      写真はシュリ・ラーマクリシュナのサマーディ。

[PR]

by yogabeaware | 2011-02-25 00:57 | ラーマクリシュナ

沈黙を欲したとき

ヨガをやってる人にもいろんな人がいる。。。



2年前、南インド・ケララ州 ネヤーダムにあるシヴァナンダ・アシュラム(International Sivananda Yoga Vedanta Centre)
で約一カ月過ごした。
ハタヨーガの指導者資格取得のため、インドのアシュラムを体験したいため・・・

100人近くの世界各国から集まった老若男女、6時から9時までの濃密なスケジュール!!
ただ没頭して対処することしかできなかった。
没頭して生きることしかできなかった。
そんな、前半を夢中で乗り越えて、
後半、
・・・、
後半、
周りを見渡す余裕が出てきたとたん、だった・・・!
あっという間に私は周りのエネルギーに呑みこまれてしまった!
周囲が急速に拡大していき、私は縮んでいく。
「ヨガ」という大項目の下、いろんな人がいろんなことをしていた。
前半に居た「無色透明の私」
それはあっという間にどこかにいった。
ヨガの本場インドのこのアシュラム!
そのアシュラムに堂々と居たはずの「私」!
それは今はまるでおびえてしまった。
見た目はどうでも、心は周囲の混沌におびえた小動物のようだった。
草かげに隠れて目玉をきょろきょろさせてた。
そこで生きるために必要と思われる種類の「エゴ」を盾に・・・
だけどその「エゴ」がまた、
苦しくて、私は目をふさぎたい、耳をふさぎたい、口をふさぎたい。
静寂が痛烈に恋しかった。。。
私の居場所はここじゃないと感じた。。。

害した健康もそのまま、私はなんだか黄色くなって帰ってきた。
迎えただんなさんは、どこの発展途上の国から来た貧相なひとだろうと思った。



日本でもおんなじだった、ヨガをしている人にもいろんな人がいる。。。

いわゆる「良いひと」、いわゆる「悪口を言わない」、いわゆる「他人にゆずる、奉仕する」etc
・・・
って、、
ヨガをする人たちだからと言って、
みんながみんな、そんな徳にたけた人たちばかりであるはずがないじゃないかーっ!!!
私はなに、周りに、外に期待してたんだろう。。。
ああ、がっかりだ。。。
周りにも自分にもがっかりだ。。。

周りや外は、自分の期待の的からそれる時期が必ず来るものなんだ。
移ろうものなんだ。
必ず期待はずれの時が来る。
信頼をおくには十分じゃない。
私は信頼できるものを探したいんだ。
全身全霊を安心してゆだねれられるものを探したい。

MOUNA ~ 沈黙 

身体が、心が、魂が、それを探すには Mouna が必要だと欲しているようだった。
[PR]

by yogabeaware | 2011-02-24 08:54 | じぶんをみつける

残酷さへの気づき 2  

      
   「思いとことばとおこないにおける完全なる清らかさ」 
 
e0200565_21335799.jpg

[PR]

by yogabeaware | 2011-02-12 21:39 | ヴィヴェーカーナンダ

残酷さへの気づき 1

e0200565_2143146.jpg
批評する行為・・・
自分の立場・考えをしっかりと理解しているひとの、賢い行為だと思っていた。
自分の芯を持てているような気がして、憧れた。
若者の頃は、その術を身につけたくて、わからないまま小林秀雄など読んだりした。
で、自分で自分をアタマ良さげに感じたりした。
テレビのコメンテーターという人たちがかっこよく見えたりした。


だけど最近ひどく残酷に感じてる

批評する行為というものを

誰でも彼でもが批評家になれる、今の社会

誰でも彼でもが身近な人を、すべての芸術を、遠くの時事問題を、想像して、批評している

だけどそんなのなんだか辛い

なんか聞きたくない

残酷だ

残酷だよ

ああ、彼らのいったい何がわかるというのだろう

いったい何が?

いったい何をもってそんなに確信めいて言うのだろう

ああ、彼らにはいろんなものがつながっているんだ

そんな、つながるいろんなものまで傷つけて

そのつい出てしまうその言葉で

正しいことを言っている、というその思いの力で

傷つける

やいばは連鎖する

その連鎖がまたひどく残酷なのだ

なぜ?

なぜ、あんなに賢いのにそこまで考えが及ばないのか

あなたの力が空間を伝わってもっともっと傷つけることになるかもしれないということまで

なぜ思いもよらない



思いもよらない

そうなんだ

私もそうであるように

誰しもそんな、自分が何かを傷つけるなんて、思いもよらないのだ

それが残酷だ

ただ残酷だとしか言えない

これは、

そういうことなんだ
[PR]

by yogabeaware | 2011-02-12 18:55 | じぶんをみつける

ゆうこさんとのメール

みわこさま

こんばんは。寒くなりましたが、陽射しが12月に比べて明るくなった気がします。

みわこさんのブログは正直でとても好感が持てます。
今、私が感じるヨーガ界はやはり、身体・・・フィジカルが中心です。
それはそれでいいけれど、体が柔らかくなっても精神的に自由かというとそうではない。

だから、「気付く」「意識化する」ことを、もっと主張(変な言い方ですが)してもいいと思うのです。
わたしも、自分が始めたクラスのご案内にはそれを強調しました。

そもそも、今頃になってヨーガを教えようと思ったのは・・・。
昨年の秋、M先生のヨーガ教室の合宿に参加したのですが。
M先生に「スワミ・ヴィシュワルーパナンダの教えをわかり易く、レクチャーしてみない?」と言われたのです。
そして、先生と何回かメールでやり取りしてレクチャーのレジュメが出来上がりました。
当日は30分の枠と聞いてたのに2時間近くあって、ほとんどが初対面の方たちの前で講義をしました。
ヴェーダンータと、仏教の「気付き」がミックスしたヴィシュワルーパナンダの教えを、
私なりに消化したレクチャーです。

ヴィシュワルーパナンダを日本に招きたいと思ったのは、「気付き」のヨーガを知って欲しかったからです。
スワミジを日本に招へい(インド人は自由に外国には行けないのです)するのは・・・
やはり思った以上に様々なことが起きました。かなりへこみました。
でも、こんな講義が出来たのも、スワミジとの出会いがあったからか。
そして、少しは水面に投石が出来たのかな?

昨秋、シバナンダ・アシュラムに一人滞在できたのも、M先生のおかげです。
その時、既に知り合いのアドヴァイタナンダ・ジというスワミジに、5日間ダルシャンをしていただきました。
ダルシャンとは、1対1で質疑応答をするものです。
そのあるとき、スワミジは「ヨーガを教えることは、貴女の魂の浄化になり、
教えられた人には沢山のメリットがあるから、是非続けなさい。双方に良いことですよ。」
と言われたのです。
その言葉は頭で理解したのではなく、意識の深いところにその飛び込んできたのです。
また、このスワミジから沈黙の重要さを学びました。

ヨーガは5000年以上続いている。
それを教えるというより、わたしは自分をとおして伝達したり見せてみたりするだけです。
そのヨーガの素晴らしさを、伝えていきましょう。
添付はよかったら見てみて下さい。わたしの教室の案内です。

                                        ゆう子


        ☆       ☆       ☆       ☆       ☆ 
     

ゆうこさん

拝見しました。

機が熟したのですね。

ヨーガのさまざまなスワミジや先生が、「教える」ということを勧めますね。
ヨーガの伝達はよほど魂を浄化してくれるのでしょう・・・

いろいろなことが起こりますが、起こることを起こらせるというのも
ヨーガの気づきの訓練の一つかと思って、
今は毎日を送っています。

ようこさんにも色々な出逢いがあったのですね。
ダルシャンで学ばれた「沈黙」とは何だったのですか?

気づきのヨーガを教えている方との情報交換は、
本当に刺激になります。
私もますます頑張ろうと思います。
どうぞよろしくおねがいします。                     (みわこ)



        ☆       ☆       ☆       ☆       ☆ 
     


みわこさん

みわこさんの返信の「起こることを起こらせる・・・」に、とても励まされました。
その通りだと思います。大切なことを忘れていた気持ちです。

ダルシャンで、アドヴァイタナンダ・ジがおっしゃた「沈黙」は、ごく当たり前のことだったのでしょうけれど。
とかくしゃべりがちな私には、「なるほど」・・・またもや深いところに投げ込まれた言葉=教えです。
スワミジは、実は「サティヤ=真実を語りなさい」と言うことをしきりに言っておられました。
そこで、私は「真実を語りその結果、トラブルもしくは相手を傷つけることになったらどうすればいいのですか?」
と聞いたのです。その答えが「沈黙」でした。
こんな簡単なことが、自分には出来ていないのです。
帰国して、「真実を語ること」と「沈黙する」ことを考えるようになったのです。
とかく、考えてるようで実は無意識に行ってる行為・・・。
意識化してみると、何かが変化する。
帰国して、抱一先生の瞑想が「アンタル・モウナ」(内なる沈黙)だったのは何か、共時的です。

シバナンダ・アシュラムでも、モウナ=沈黙・・・ほとんどしゃべることがなくて、素晴らしい時間をすごしました。
欧米から来ていた女性は皆一人での滞在で、とても物静かな方ばかりでした。
仲良くなった、レバノンの女性リーマに「貴女はヨーガを教えてるの?」と尋ねると、
「私はいつも生徒です」と言ったのです。リーマの問いに「時々ヨーガの先生」と答えた自分が恥ずかしくなりました。
教えていても、いつも生徒ですものね。

明日のヨーガスートラ、Yさんが参加されるのですね。
出会いの不思議です。
                                 ゆう子


        ☆       ☆       ☆       ☆       ☆ 
     


ゆうこさん、
このたびの返信のメールに、全く同感です。

モウナ(沈黙)はスピリチュアルな意識を高めることに大変有効だと、
自分もモウナを心がけてみて、感じました。

マザーテレサは「言葉が多すぎます」と言って亡くなったと
先ほど知ったのですが、この世の中、この世で触れ合う人、
ほんとうに言葉が多すぎると思う。

アドヴァイタナンダ・ジがおっしゃるとおり、
真実の言葉だけを語って生きていきたい。
そして、みんながそう出来たらどんなに美しい世界になるだろうと思います。

「起こることを起こらせる」というのも、モウナのひとつなのではないかと感じます。
スワミ・ヴィヴェーカナンダの『カルマ・ヨーガ』を読んでいたらこんな一節がありました。

「カルマ・ヨギは最高の理想は無抵抗である、ということを理解している人です。
そしてまた、この無抵抗は実際に持っている力の最高の表現である、ということを、
そしてまた、悪への抵抗というのは、この最高の力の表現、すなわち無抵抗に向かう道の、
一段階にすぎないのだ、ということを知っている人です。」(35 P)

アーサナは「起こることを起こらせている」動き・・・
あんな感じですべての時間を生きていけたら、と思います。       (みわこ)


        ☆       ☆       ☆       ☆       ☆ 
     


みわこさん

みわこさんの「起こること・・・」を読んで、間もなく・・・、
私の始めたクラスの開始でした。
その言葉がよみがえり、スワミ・ヴィシュワルーパナンダがいつも「ポーズはあなたがしているのではない、
起こっている」と言っていたことを思い出しました。そう、アーサナは自分がやっているのではなく、「起きている」。
参加してくださった生徒さんにそれを伝えていこう、と思いました。
そういうやり方は何か不思議らしい・・・。
反響がありました

明日は大寒。寒さを楽しむ気持ちがあると、嬉しい毎日・・・。

                                        ゆう子


スワミ・ヴィヴェーカナンダは現代の教育についてこう述べている。
「背後になんの実質もない、永遠の無意味な長談義を信じよということにすぎない」
「彼らはことばをたべて生きよ、ともとめられているのです。」(『ラージャ・ヨーガ』18P)


                           
[PR]

by yogabeaware | 2011-01-22 23:00 | 日々。。