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リラックスへの気づきに導かれるヨガ

e0200565_1254637.jpgリラックスするという一つの焦点に集中して

あなたは心静かになっていきます

落ち着いていきます

視野が開けてきます



ヨガをとおして

リラックスをとおして

ありのままの状態の透明な観察をとおして



あなたは「本当の自分」を発見する旅に出はじめます



何の束縛もない、自由で、素朴で、あるがままの自分



透き通った観察の先にそんな自分を発見するのです
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by yogabeaware | 2011-06-18 12:01 | ヨガクラスの内容

注意深くなるための方法~「スカ」と「スティル」を体験する

前回のブログには、注意深さとは高度な観察力であり、
それはありのままを見る、あるがままを受け入れることだと書きました。
ブログの最後には、身体を使うヨガ(ハタ・ヨーガ)は、
「観察する」「注意深く生きる」練習のためのたいへん有効なツールだとも書きました。

ハタヨガのいいところは、観察の拠り所・基準があるということです。
それは観察の道しるべとか、着眼点と言ってもいいと思います。
はっきりした基準があることで、注意深く観察することがよりイージーになるのです。



さて、私が本格的にヨガを始めたころ、
先生に「身体を観察してください」とか「呼吸を観察してください」とか言われても、
えー???
イミワカンナーイって感じでした。

シャバーサナで横になったときに「リラックスした身体を観察して」と言われても、
こーゆーことかな、あーゆーことかなと迷ってばかりで、自分のしている行為に自信がない。
あー、まるでリラックスしてない。。。

「意識」という、目に見えないものを使って観察する難しさを、この時はじめて感じました。

その上、ヘチマや朝顔などの変化のある対象物ならまだしも、
自分自身の身体や呼吸を観察する、でしょう?

こんなに身近なものなのに、
実は身近すぎてむずかしい、
んだよよねー



ところで、ヨガの重要な経典のひとつ、パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』では、
アーサナとは二つの重要な質、「スカ(sukha)」と「スティラ(sthira)」を持つものだと論じられています。
この二つの質がポーズの内になければならない、というわけです。
あるポーズがそれが動的であれ、静的であれ、もし快適でないとすれば、
私たちは良い観察者でいられる状態ではありません。
もしそこにスカがなければ、つまり、
あるポーズをとるために自分を無理強いしているとすれば、
それは本当のアーサナではありません。
スカとは、私たちがとても快適で、自分自身を観察できる、ある心の状態のこと、
くつろいでいる状態のこと、これがスカの概念です。
ここで、くつろいでいることは、鈍感を意味してはいません。
それは注意深く、しかもくつろいでいることを意味しているのです。
だからこそ、物事を明せきに見る(観察する)ことができるのです。
スティラは、注意深い堅固さを意味します。
私たちは注意深くあらねばなりません。
うとうととしてはいけないのです。           

スカとは、一つのポーズ内に快適に留まれる能力、スティラとは不動で注意深い(alertness)ということです。                            (T.K.V.デシカチャー) 



私はヨガの先生からスカとスティルの概念を聞いていたし、
『ヨーガ・スートラ』も勉強していていました。
でも、ポーズをとっていても、それをばく然としか理解していなかった。
わかんないからポーズをとりながら無理やり快適だ快適だと呪文を唱えて思いこませている感じ。。。
でもある日、
ある日のこと、
自分の中から湧きあがってくるような自然な振る舞いでヨガのポーズがとれたとき、
理解し始めたのです、
アーサナとは、堂々と、落ち着いて、静寂で、くつろいで、
そしてすべてを見渡している、わかっている、気づいているということを。
アーサナとはごく自然であるということを。
もっとも自分がくつろいで裸んぼでいるということを。
ああこれが自分の源泉の姿なんだということを。
これがあるがまんまだということを。
そしてあとになって考えてみて、ああこれが本質を理解するっていうことなんだなって思いました。
私はあのときアーサナの本質を理解し始めたんだと思う。



からだを動かすヨガを続けていくと、神経や感覚が整い、
いつもの日常生活で感じる以上の、もっと広い世界まで感じられる素地が整います。
心と身体と感覚がよりさまざまなものに反応できる力、キャッチするセンサーが培われます。
そうしてヨガを続けていく過程でごく自然に、
本や他人や社会から教えられた知識を、
身体が、五感が、開いた心が「体験してゆく」、ということが起こるのです。
ハタヨガによってセンサーが進化した身体・五感・心が、
ある日自然に体験していくという感じです。
いや、起こったことを見ていたら体験していた、という感じです。
これが知識が体験となる瞬間、
本当の知識となる瞬間、
本当の知識と出会う瞬間、
真実の知識をいま体験している、という瞬間なのです。



冒頭の、
「身体を使うハタ・ヨーガは、「観察する」「注意深く生きる」練習のためのたいへん有効なツールです」
という本題に戻ります。



私がヨガをする上で長く迷い道にいたのは、
今まで生きてきた人生の体験の中に「スカ」と「スティラ」が無かったか、
その体験を忘れちゃったためだと思われます。

せっかく、
パタンジャリのようなヨガの偉大な先達が声をそろえて言うのです、
ヨガのアーサナとは、くつろいでリラックスして気持ちよくって、
そして堂々としたゆるがないようなバランスがとれていて、
あなたはそれらすべてをとても冴えたまなざしで見渡しているよって。
ヨガアーサナの本質は「スカ」と「スティラ」だよって。

さあ、その道しるべを使いましょう、
「スカ」と「スティラ」というその基準を使いましょう。

私はいくら、観察して、観察してって言われても、その方法がわからなかった。
ただ観察してと言われても、ボワンとしてあいまいだったのだ。
つまりそれは観察の着眼点がわからなかったからだ。
私は、観察の焦点があいまいだったのだ。
だけど、なあんだ、
焦点のピント合わせは既にパタンジャリがやってくれていたじゃあないの!
だから皆さんは私のようにただばく然と観察するのではなく、
パタンジャリのように、
パタンジャリのピントに焦点をあてれば、取りかかりやすく、近道です。
そう、パタンジャリのピントに観察の基準、拠りどころを置いて、
アーサナをしているときも、
呼吸や呼吸法をしているときも、
心や五感を感じているときも、
「スカ」と「スティラ」を基準に。
アーサナをし、呼吸法をし、と同時に、
身体は、呼吸は、心は、「スカ」か?「スティラ」か?と観察するのです。
そのようにして観察していると、
ほんとうだ、アーサナの本質は「スカ」と「スティラ」そのものだ、
と体験する時がやって来ます。
知識を体験する時が。

(次回は、「スカ」と「スティラ」をもう少し具体的に見ていきたいと思います)
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by yogabeaware | 2011-05-16 09:03 | ヨガクラスの内容

愛はしぜんにおこる

(『ラーマクリシュナの福音』757P)
ここでシュリ・ラーマクリシュナは若いブラーミンに話しかけられた。

師 「知識と推理を捨てなさい。バクティを受け入れなさい。バクティだけがエッセンスなのだよ。
ここに来て三日目かね」

ブラーミン(手を合わせて)「そうでございます」

師 「信仰を持ちなさい。神に頼り切るのだ。そうすれば、何一つ自分でする必要はない。
母カーリが、お前に代わっていっさいのことをして下さるだろう。





        ☆       ☆       ☆       ☆       ☆ 
      




私は時々日本ヴェーダンタ協会(インドのラーマクリシュナ・ミッション日本支部に行く。そうすると、
よく協会のインド料理を作ったりして奉仕している、ソフィアさんというインド女性に会う。

その日は私が先に来て瞑想室(シュライン)で座っていた。
しばらくしてソフィアさんが入ってきた。

彼女はなにかマントラを唱えながらひたいを床につけ、祈りをはじめた。
とたんに、ブワッという音とともに彼女が渦巻く濃密なエネルギーになった!
のを感じた。

私は彼女に驚嘆し、そして愛しく身近に感じられた。

・・・と同時に自分が恥ずかしかった。

私の神さまを思う愛・バクティのなんて薄っぺらなことか!!!





        ☆       ☆       ☆       ☆       ☆ 
      




バクティだけがエッセンス 


神に頼り切るのだ。そうすれば、何一つ自分でする必要はない


それを、私はアーサナで体験する。


そう、それは身体を使ったヨガアーサナで体験できるのだ。


知識と推理を捨てなさい


知識や推理を超越する ということ、

それをヨガアーサナをしながらし続けていくと、
何一つ自分でする必要がないことを、
ほんとうは誰でもが体験することができるのだ。

アーサナをするとき

そこで私たちは

からだの筋肉をゆるめると共に、自分の思考や心の力もゆるめようとする

それは、けさ何を食べただとか、これから何をするとか、明日の予定は、子供の試験は・・・
などを忘れようという段階でも

自分は何という名前か、誰の妻か夫か、誰の母か父かを忘れようという段階でもない

自分が男だか女だか、どの場所に生きてるか、どの時代に生きてるかという感覚さえ無いほどのゆるみ

もはや自分が自分ではない

すべては神さまのもの

時間もちからも魂も

すべては私のものではない

私は私のものではない

すべては神さまのもの

私の全能力を使ってもどうにもならない

私にはどうにもすることができない

すべてはどうでもいい

神さま以外のすべてはどうでもいい



        ☆       ☆       ☆       ☆       ☆ 
      



ヨガアーサナを続けていくと、不思議なんだけれども、このような意識が復活し、育っていく。

それを続けていくと、

何一つ自分でする必要はない


という事実を発見していく。

私は今、ヨガアーサナというエクササイズをして身体を動かしているのに、

まったく自分で動いていない感覚

意識ははっきりしているのに、

まったく自分の意思で動いているのではないような

まるで動きに導かれているような

自然発生的な SPONTANIOUSな 動きの感覚

そんな感覚を味わうことが出来る

本当のヨガアーサナを訓練し続けていくと

普通の日常的感覚からいったら、まさに「驚異の!」感覚に出会うことが出来る

そのとき、

何一つ自分でする必要はなく、

大いなる存在が自分に代わっていっさいのことをしている真実を垣間見る

母カーリが、お前に代わっていっさいのことをして下さるだろう


と同時に

肉体は疲れを忘れ
エネルギーはひかり輝き
私は静寂な満足感と平和な気持ちに包まれる

これらは日常の生活では得たことがなかったという発見

いままでは「生きながら死んでいたんだ」

これが「本当に生きている」ということなんだという発見

そして

この道はほんとうなのだということが自明に、明らかになる

知識や推理ではない

自らの体験によって
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by yogabeaware | 2011-03-29 10:54 | ラーマクリシュナ

たねはいねから、いねは光から

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by yogabeaware | 2011-03-03 08:34 | ヨガクラスの内容

ヨーガ・ニドラー ヨーガの眠りについて

思いこみと
頑固と
妄想

これらは成長の障害だ

思いこみと
頑固と
妄想

沈黙はこれらを破壊する
             

文明化社会の大人として、わたしたちは知性を最も優れた規範としてあがめるが、
一方、「知性の源泉」を無視しています。
わたしたちは子供の時からそのように訓練されてきたので責められるめきではないが、
霊性の生活において探求者は、信仰・愛・帰依の崇高な感情を通じて知性を超越していかなければなりません。
霊的体験は知性を超えているため、霊性の生活で進歩するためには探求者は、
すべてを忘れねばならず、論理や理性の行動基準に従うべきではありません。
そういう理由で、しばしば探求者は子供のように無邪気であれと告げれらます。
なぜなら子供は知性の論理的主張には拘束されないからです。(スワミ・サッティヤーサンガナンダ)


知性をまとった
思いこみと
頑固と
妄想

これが厄介なんじゃないかな



ところで。。。
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ヨーガ・ニドラー(ヨーガの眠り)と呼ばれるユニークな瞑想法があります。
仰向けで、横になりながら実践するのですが、
肉体・呼吸・心を観察しそれらを目撃しつづける意識を通じて、
常識でがんじがらめになった知性や緊張を解放し超越する。。
そして最終的に自己の深いくつろぎ・本当のリラグゼーションにみちびいてゆきます。。

スワミ・サッティヤーナンダ・ジは「ヨーガ・ニドラーの序」の中でこのように語っています。

もし私が、「これが正しくあれが悪い」と言うとすれば、
あなたは私に同意するかもしれませんが、
それは知的な同意です。
あなたは同意したにも関わらず、日々の生活でそれを実行できないかもしれません。
さて、その障害とは何でしょうか?

このように理想を実践することがとても困難であるということには、何か理由がなければなりません。
人生の理想のすべては聖典の中にだけあるべきではありません。
私たちは自らの理想と共に、「生き」なければなりません。
ヨーガ・ニドラーは、私たちの考えや行動のすべての責務を負う、
内側のサイキック・心霊的な人格と接触させます。
ヨーガ・ニドラーの助けにより、私たちは自分の信じるそれらの理想を「生き」られる、
行動開始できるのです。


例を挙げると、かつて私はプロの泥棒で数百の犯罪を犯した男に会いました。
長い時間彼と語り合い、最終的に盗みを行うことは悪いことだと彼に確信させました。
彼は自分が罪人であるという感情にまで達し、私は彼を転向させた、きせきを行ったと思いました。
しかし、5年後に彼の村に戻ると彼がなお同じ仕事(泥棒)をしていることを発見しました。

なぜでしょう?
なぜなら、私が転向させたのは彼の知性で、彼の内なる自己ではなかったからです。
そのあと、私はその村に6カ月滞在し、学校で子供たちや教師たちにヨーガ・ニドラーを教えました。
その泥棒もまたそれの授業に参加し、短い期間の後、彼はその職業から離れました。


知的な確信は人間生活の一側面です。
私たちはみな、善や悪について知的に確信していますが、
と同時に、私たちが理解を必要とする全てに対し、感情的に受容的でなければなりません。
このことは、受容を妨害するものが消え、
心が静穏でひとつのなめらかな流れになったときのみ可能です。

そのときなら、心に印象付けられたものが何であれ、それは誤りを正し、運命となり、指導します。

もしあなたが、悪い習慣を持つ人を知っているならば、ヨーガ・ニドラーの実践で彼を指導しなさい。
彼が完全にリラックスするまで待ちなさい。
それからいくつかのポジティブ・肯定的な指示を与えなさい。
この受容性の頂点の時間に、彼は、あなたの言葉に聞き入ることでしょう。
無分別で落ち着かない心は従順にはなれませんが、ヨーガ・ニドラーの心は完全に従順なのです。

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by yogabeaware | 2011-03-01 10:48 | スワミ・サッティヤーナンダ