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ニ種類の謙虚さ

謙虚であること ~ なんて素晴らしい質!
注意すべきなのは、そこにはニ種類の謙虚さがあるということ。
自分は何もできないことを知られたくない、守りの謙虚と、
自分は何もできないことを知られることに何の恥もない、オープンな謙虚と。
「〇〇チャンすごいね、私には出来ないな~」
表面にはおんなじ言葉でも、偽りの謙虚さには違和感が残る。

偽りの謙虚しか表現できない人へ ~

一度やってみて。
自分は何もできないことを心からオープンにすることを。
それを晴れ晴れしくオープンにすることを。
自分の心の中の恐怖を相手に見せてしまうことを。

その先に、「この生(せい)」が、「生きていること」が心から楽しい、その事実が待っている!
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by yogabeaware | 2012-04-29 09:35 | じぶんをみつける

想いはそれになる

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「瞑想」すると緊張する・・・
からだが凝り固まってあたまが痛くなる・・・
ワタシこんなにきゅう屈なんだけど、これって瞑想なの?
・・・って悩んでいたころ、インド・リシケシのヨーガ・ニケタンのスワミジ(お坊さん)に教えてもらった。



瞑想とはポジティブで、明るく、自分が成長するように田畑を耕すようなものと。



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ヨガの本によれば、瞑想とは深い集中だという。
絶えまなく一つのことに想いを集中させる訓練だと。
それができたとき、その想いを向けていたものと自分との一体化が起こると。





想いが、想ってる対象になってしまう、
自分が、想っている「それ」になってしまうなんて、、、
だったら決して自分の情けなさや他人の欠点を想ってはいけない。



バクティ・ヨーガは真の、純粋な、神の探求だという。
愛にはじまり、愛でつづき、愛におわる探求だという。
『バクティは神への強烈な愛である』
『人がそれを得ると、彼はすべてを愛し、何ものをも憎まない。彼は永久に満足してしまう』
                                                             (ナーラダ『バクティ・スートラ』)



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『バクティに圧倒されたたましいは、




憎しみを発散する道具となるには




あまりに、愛なる神に近いのです』





           (スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)

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by yogabeaware | 2012-04-26 13:46 | ヨガ哲学

羊蹄山

夕陽を受ける前の羊蹄山
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夕陽を受けた羊蹄山
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日本には素晴らしい守り神=山々がある。
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by yogabeaware | 2012-04-16 12:34 | 日々。。

究極の「正直」

「正直に生きる」・・・私が本当の意味でヨガに出会った時に与えられた課題だ。
今では自分の生をぶれずに生きるための良い指標になっている。
そしてときどき振り返って考えるのだ、はて、正直に生きることって???って。



インドのカルカッタで100年くらい前に生きた、「M」ことマヘンドラナート・グプタ(またはマスター・マハサヤ)
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について、OSHOことラジニーシが『私が愛した本』の中でこのように述べている。


次の選択は、不思議な人物の書物だ。
彼は自分を「M」と呼ぶ。
私は彼の本名を知っているが、彼は決して誰にもそれを知らせようとはしなかった。
彼の名前はマヘンドラナートという。

彼は、ラーマクリシュナの弟子のベンガル人だった。
マヘンドラナートは、何年も何年もラーマクリシュナの許に付き従い、自分の師の周りに起こることをどんなことでも記録し続けた。
この書はMによって書かれた『ラーマクリシュナの福音』として知られている。
彼は決して自分の名前を明かそうとはしなかった。
彼は無名のままでいたかったのだ。
それこそが真の弟子のやり方だ。
彼は自分自身を完全に消し去った。
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ラーマクリシュナが死んだ日、驚くだろうが、Mも死んだ。
彼にはそれ以上、もう生きるべき理由がなかったのだ。
私には理解できる・・・・・ラーマクリシュナが死んだ後では、死ぬことよりは生きることのほうがはるかにむずかしかったに違いない。
師のいない世界に生きるよりは、死ぬ方がはるかに至福に満ちていた。

たくさんの導師(グル)がいたが、その師について報告するMのような弟子がいたことは決してなかった。
彼はどこにも姿を現さない。
彼はただ報告している---自分とラーマクリシュナについてではなく、ひたすらラーマクリシュナについてだ。
その師の前に彼はもう存在しない。
私はこの男とその書、そして自分自身を拭い去ろうとするその途方もない努力を愛する。
Mのような弟子を見つけることは稀なことだ。
ラーマクリシュナはこのことでは、イエスよりもはるかに幸運だった。


これを読んだ時、
自分の印象を100パーセント消し去るとことの清々しさを感じた!
晩年、Mさんの口からあふれでる言葉はすべて師・ラーマクリシュナに関することだけだったという。
「真理」にまつわること以外は沈黙・・・それこそ究極の正直だと思った!
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by yogabeaware | 2012-04-14 19:11 | Mさん

ハ・タ・ヨガとさまざまなヨガの道と春ヨガ日程のお知らせ

ヨガにはさまざまな道(方法)があります。e0200565_1718267.jpg
もっともポピュラーなのは身体をつかった浄化のヨガ(ハ・タ・ヨガ)、
瞑想を主体としたラージャ・ヨガ、
知性や識別力をつかう知識のヨガ(ギヤナ・ヨガ)、
日常の仕事を神への礼拝のように行おうとするカルマ・ヨガ、
神への献身に没頭するバクティ・ヨガ、etc・・・
ひとつではヨガとは言えず、また、ひとつ欠けてもヨガの頂点にはたどりつけないように思います。
それらは手足のように相互に補うもの。ひとつひとつの道のエッセンスからヨガの真髄を学ぼうとする態度が、
もっとも自然なヨガの学び方のように思います。

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ヨガとはホール/whole=全体性。
一つ一つの道はヨガという宇宙を創る一片なのです。



その中でもヨガ勉強の「基盤」として最もふさわしいと思う道があります。
身体を使い、観察し続ける、「ハ・タ・ヨガ」です。
なぜなら。。。

身体は正直だから。
身体の反応は正直だから。
だから身体を動かして、
やってくるもの、起こること、感じてしまうことは、けっこう「あて」になるのです。
それを、ありのままを、心に巻き込まれずにただ観ようということです。


今の身体は自分の表現。
今の身体は今の自分を表しています。
今の身体は心の表現。
今の身体は今までの自分の生き方を表しています。
今の身体は素の表現。
今の身体は自分も知らない自分の正の部分、負の部分を表しています。

だから身体の反応を観察する「ハタ・ヨガ」は、すべてのヨガ勉強のトーチ(灯)となり得るのです。

身体を刺激した時、起こることを観察しよう。
それによって起こることは信頼するに値する。
なぜなら身体は正直だから。
身体は色眼鏡でみないから。


東京での春ヨガの日程
4月23日(月)10:30~13:00@三鷹・沙羅舎
5月28日(月)10:30~13:00@三鷹・沙羅舎
清々しい和室にて、アーサナ(ポーズ)・プラーナヤマ(呼吸法)・ダラナ(瞑想)をゆったりと。
新たな気づきと、本当の「生」とつながるエネルギー。

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by yogabeaware | 2012-04-14 18:27 | ヨガクラスの内容

神さまは身近にこそいるんだ。。。

神さまって、仙人のように万能で偉くて立派なものだと思っていました。
空(そら)にいて、人間界を見おろしているのだと思っていました。
それにしては世の中理不尽なことばかりで、やっぱり神さまなんていないんだと思っていました。

私を変貌させたのはシュリ・ラーマクリシュナです。
彼と神との、あまりにも具体的で、あまりにもチャーミングな、その交流の話を聞いたとき、
ヨガの勉強で習ってきた、「神さまは自分の内にいる」ていうのは本当なんだと直感しました。
私にも知覚できるかもしれない、
ラーマクリシュナのようにそれと繋がることができるかもしれない!と高揚しました。e0200565_16552897.jpg
時には親子のように、恋人のように、主人と従者のように、
神さまと身近な関係でいていーんだ!って心からほっとしました。

以下は、ラーマクリシュナ(19世紀に実在した人物)が語ったことです。


「ヤタダリはラームラーラの像(幼きラーマ神の像)に奉仕していた。
彼は行くところには必ず神像を持ち運んだ。
おめぐみで頂いた食べ物はすべてラームラーラの神像のために調理し捧げた。
それだけではなく、彼はラームラーラが実際に食事をしたり、何かを食べたいとか散歩に行きたいなどと子どものようにおねだりするのをその目で見ていた。
ヤタダリは喜びに圧倒されながらラームラーラへの奉仕に没頭していた。
わたし(ラーマクリシュナ)もラームラーラが実際にそのような行動をするのを見た。
わたしは彼らと共に過ごした。
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 「日がたつにつれラームラーラはわたしを愛するようになっていった。
わたしが彼らと一緒にいる間は陽気で楽しそうだが、わたしが自分の部屋に帰るとすぐさまあとを追ってきた。
一緒に来ないようにと命令してもヤタダリの元に留まってはくれなかった。
最初、これは幻に違いないと思った。
なぜってヤタダリがあんなにも長い間熱烈な思いで奉仕している神像なのだもの、どうして彼よりもわたしを愛することがあるだろう?
しかしそれはわたしの想像ではなかった。
わたしはあなたを見るようにはっきりとラームラーラを見たのだ──わたしの前でダンスをし、わたしの後をついてくるラームラーラを。

「ときどき彼はわたしの膝に乗りたがった。
だがそうしてあげてもじっとしておらず、太陽のもとに駆けだしていってはいばらに咲く花を摘んだり、ガンジス川で水遊びをしたり泳いだりするのだった。
わたしは何度も何度も彼に言ったものだ、
『わが子よ、そんなことをしてはいけないよ。太陽の下で走ったらおまえの足の裏が火ぶくれするよ。そんなに長く水に浸かっていたら風邪をひいて熱を出してしまうよ』と。
しかしわたしがどんなに注意しても決して耳を貸さず、悪ふざけを続けるのだった。
時々、彼は美しく甘いまなざしでわたしを見、
時々わたしに向かってふくれ面をした。
わたしは本当に怒って、『待ちなさい、このいたずらっ子め!今日はただじゃおかないぞ。骨が粉々に砕けるまで打ってやるからね』と言って叱ったりした。
屋内で遊ばせようと注意をひきそうな贈り物をしてみたが、それでもいたずらが続くと、わたしは二、三回平手打ちをしたりした。
すると彼はふくれて目に涙をいっぱい溜めてこちらを見るのだ。
耐えきれずわたしはつい彼を膝に抱いてなぐさめるのだった。
これらのことはすべて本当に起こったことだ。

 「ある日ガンジス川に沐浴に行こうとすると、彼も一緒に行くと言い出した。
さてわたしに何ができよう?そうするしかないではないか。
でもその日彼は決して水から出てこようとしなかった。
何度も頼んだがまったく聞き入れてくれない。
ついにわたしは怒りのままに、
『もうよろしい──おまえの好きなだけ水に浸かっているがいい!』と言って彼を水に沈ませた。
そのときわたしは彼があえぎ、呼吸をしたがっているのを感じたのだ!
『何をしているのだ、わたしは!』
うろたえて我にかえり、わたしは彼を水から引き上げ、胸に抱いた。

 「数日間、ヤタダリはラームラーラに捧げる食事をつくっていた。
が肝心のラームラーラがどこにも見当たらない。
彼は悲しみにくれながらわたしの部屋に走ってきた。
するとそこの床でラームラーラが遊んでいるではないか!
ヤタダリはとても傷ついて、
『わたしはあなたに供物を捧げるために大変な苦労をしているのですよ。わたしはすべての場所を探しました──そしてあなたはここにいた。
いつもそうだ!あなたはわたしのことを気に掛けてもくれない。
あなたはすべてをお忘れになってしまっている。
あなたはいつもそうなのだ。
あなたは自分が楽しいことをする。
親切心や愛情なんてないのだ。
親元を離れ、森へ行ってしまうのだ。
かわいそうなお父さんが心の傷で死んでも、死の床にさえ姿を見せに来ないのだ!』
ラームラーラを叱責して、彼を自分の部屋に連れ帰り、供物を食べさせた。
このように月日は流れていった。
ヤタダリは長いことダクシネシュワル(ラーマクリシュナがいた寺院)に滞在した。
ラームラーラがわたしから離れたがらなかったからだ。
ラームラーラを置いて一人で去るにはあまりにも長く彼を愛してきていた。

 「そんなある日、ヤタダリが喜びにむせび泣きながらわたしの所にやってきた。
そして、
『わたしが今まで知らなかった、
そしてわたしが長いこと願っていたお姿を、
とうとうラームラーラが見せてくれた!
これで人生をかけた望みは叶った。
ラームラーラはここから去りたくないと言っている。
彼はあなたから離れたくないのだ。
だがわたしはそれを聞いてももう悲しくはならない。
彼はあなたと幸せに暮らし、喜びに満ちて遊んでいる。
そして彼がそうであるのを見ることがわたしにとっての至福なのだ。
わたしのしあわせは彼の内にあることを今やわたしは学んだ。
だからわたしは彼をあなたに預け、ひとりで去ることができる。
彼があなたと共にいる幸せを、わたしはこれからずっと楽しむことも出来るのだ!』
と言った。
そしてヤタダリはラームラーラの像をわたしによこし出て行った。
ラームラーラはそれ以来ずっとここにいるのだよ。」
神さまはなんていとおしく、なんてチャーミオング!
こんなふうに神さまを愛していいんだ!
こんなふうに付き合っていいんだ!

ここでは神さま(ラームラーラ)は万能でもなく偉くもなく、ただ愛の権化、だ。
いや完全で万能だからこそ、このラームラーラのように無邪気に人を傷つける子供のような振る舞いをすることもできるのだ。
そしてそれによってヤタダリは至福を知ることが出来た。
ラームラーラの像を手放しても、ラームラーラを、その本質を、自分の内なるハートに安住させることが出来たのだ。
ヤタダリと同じ喜びを・・・と、私も憧れる・・・

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by yogabeaware | 2012-04-09 16:58 | あい