<   2011年 05月 ( 10 )   > この月の画像一覧

えいえんと至福

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ヨガをしていた二時間が

今始まり今終わったような感覚で

いったい私たちは 時間 という空間にいたのだろうか

なんだかもっと偉大な空間に属していたようで

時間がないような

身体がないような

常にそこにいたけど

時間は過ぎてない

これが

今という瞬間を積み重ねて生きているということ?

これが永遠、ということ?

たぶんそう

たぶんそんな匂いがする

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by yogabeaware | 2011-05-31 00:19 | ヨガクラスの内容

聖者の慈悲の涙

「 お前は、もし見たいと思うのなら、自分のハートの中に、クリシュナ神さまを見ることができるのだよ 」と、師シュリ・ラーマクリシュナに言われても、
「 私は、クリシュナだとか、何だとかいうようなナンセンスは信じません ! 」
と応酬していたという、若きヴィヴェーカーナンダ、ナレンドラ。
・・・彼はとことん自分で確かめるタイプの人だったのか!e0200565_23553956.jpg

今回のブログに書いた、このナレンドラの述懐・・・
師と弟子との深い結びつき
そしてシュリ・ラーマクリシュナの慈悲のような愛を感じます。
若き聖者の悩み」「若き聖者の決意」も読んでみてください。


礼拝がすむと、ナレンドラとMは話をはじめた。
ナレンドラは、亡きシュリ・ラーマクリシュナにお目にかかったさまざまなシーンを想い出していた。

ナレンドラ 「 まだはじめのころにお訪ねした、ある日のことです。
師はうっとりとした様子で、私におっしゃいました、『 来たね! 』 と。
私は思ったのです、『 なんという驚くべきことだろう!まるで、ずっと前から私を知っているかのご様子だ 』
それから、『 お前は光を見るかね 』とおっしゃいました。
私は、『はい、眠りに入る前に、私は光のようなものが自分のひたいの近くを回転するのを感じます 』
と、お答えしました」

M 「 あなたは今でもそれを見ますか 」

ナレンドラ 「 よく見たものでした。
ある日、ジャドゥ・マリックのガーデンハウスで、師は私に手を触れて何かひとりごとをつぶやかれました。
私は意識を失いました。
このことの影響は、一カ月の間、私のうちに残っていました。
酔ったような感じでした。

私に結婚の話が持ち上がったということをお聞きになったとき、
あのお方はカーリー女神の神像の足をつかまえて、お泣きになりました。
目に涙を浮かべて、母なる神に祈っていらっしゃいました。
『 おお、母よ。どうぞ、何もかも、ひっくり返してください!
ナレンドラをおぼれさせないでください!』 と。

父が死んだあと、私の母や弟たちは食べるものにこと欠きました。
師はある日、アンナダ・グハに会うと、こうおっしゃいました。
『 ナレンドラのお父さんが死んだ。家族はたいそう困窮している。
もし友人たちが金で彼を助けたら、さぞよかろうと思うのだが 』

アンナダが帰ったあとで、私は彼にがみがみと小言を言いました。
『なぜ、あんなことを彼におしゃべりになったのですか 』 と。
このように叱られると、彼は泣いてこうおっしゃいました、
『 ああ! お前のためなら、私は一軒一軒、物乞いをして歩きたいとまで思うのだよ 』

・・・あの愛によって、私たちを屈服おさせになったのですねえ。
そうは思いませんか 」

M 「 まさにその通りです。彼の愛は完全に「 無私 」でした 」
『 ラーマクリシュナの福音 』 1077 頁

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by yogabeaware | 2011-05-30 23:33 | ラーマクリシュナ

若き聖者の決意

一方では家族を支えなければ、という思い、もう一方は自分の本当の生き方の模索、
それらのはざまで葛藤していたナレンドラ ( 若きスワミ・ヴィヴェーカーナンダ )。
ブログ 「 若き聖者の悩み 」を読んでみてください ) 
だが、師であるラーマクリシュナの死を迎え、
彼は自分の天命をおのずと知ったのだろう、僧となる強い決意をする。
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『バガヴァッド・ギーター』の朗誦を終えると、
カーリは 「 シャーンティ、シャーンティ、シャーンティ 」と唱えた。

ナレンドラ、
および他の信者たちは立ち上がり、
歌い、そして踊りながら、
ベルの木(その葉がシヴァ神に捧げられる聖なる木)の周囲をぐるぐるまわった。
ときおり、
声を会わせて「 シヴァ・グル! シヴァ・グル! 」と唱えた。

黒月十四日目の、真夜中だった。
真の闇があたりを包んでいた。
人も、鳥も、けものたちも、すべてひっそりと静まりかえっていた。

若いサンニャーシ( 出家者 )たちはオレンジ色の衣を着ていた。
彼らが声を張り上げて唱える「シヴァ・グル」という言葉は、
雷雲のとどろきのように、
果てしない大空に昇り、
不可分のサッチダーナンダの中に消えた。

こうしてシヴァラートリの礼拝は済んだ。
( シヴァ神の夜。信者はこの日、一日中断食し、夜中は瞑想、祈り、その他の行事をする )

太陽はまさに昇ろうとして、東の地平線を真紅に染めていた。

この聖なる薄あかり、
昼と夜のつながり目、
聖なるブラフマムルタ( 日の出の45分前 )のなかで、
若い礼拝者たちはガンジス川の沐浴を終えた。

朝だった。

信者たちは聖所に行き、祭神の前にひれ伏した。

そして徐々に広間に集まった。

ナレンドラは新しいオレンジ色の僧衣をまとっていた。
彼の衣の輝かしいオレンジ色は、
その一つ一つの毛穴から神々しい光を放射している顔と身体の、
この世のものと思えぬ気高い輝きとよく溶け合っていた。

彼の容貌は火のような光輝に満たされており、
しかも愛のやさしさをおびていた。

彼はすべての者の目に、
絶対実在と至福の海の底から湧きあがって、
師・シュリ・ラーマクリシュナの教えの普及を助けるために人の姿をとった
一個の泡と見えた。

全員の目が彼に注目した。
ナレンドラはその時、二十四歳、
あの偉大なチャイタニヤが世を放棄したのとまさに同じ年齢だった。

バララームが信者たちの断食明けの食事にと、僧院に果物や菓子を届けてよこした。
ラカール、ナレンドラ、ほか数名がそれに手をつけた。
一口か、二口食べてからその中の誰かが、
「 バララームの実に恵まれた人であることよ!」
と叫んだので、皆が笑った。

ナレンドラが今度は子供のようにふざけ始めた。

彼は、シュリ・ラーマクリシュナの真似をした。

e0200565_23345934.jpg菓子を一つ口に入れると、サマーディに入ったように立ち尽くした。
目はまばたきを止めた。
一信者が進み出て、彼が倒れないように支えるふりをした。
ナレンドラは目を閉じた。

数分後に、まだ菓子を口に含んだまま、彼は目を開き、のろのろとした口調で、
「 だい・・・じょう・・・ぶ・・・だよ 」
と言ったので、皆がどっと笑った。

菓子は全員に配られた。

Mは、この素晴らしい幸福の市場をながめていた。

信者たちは喜びに満ちて、「 ジャイ! グルマハーラージ!(師に勝利あれ!) 」 と叫んだ。

この大震災を体験して、自分の「天命」を今こそまっとうしよう!と感じている人も少なくないと思う。
私もそのひとりだ。自分の信念を信じて進んでいこう、愛を持っていこう、と思う。

『 ラーマクリシュナの福音 』 1076 頁

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by yogabeaware | 2011-05-30 22:54 | ヴィヴェーカーナンダ

若き聖者の悩み

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「 師 」 シュリ・ラーマクリシュナは、のどの癌を患い、ダクシネシュワル寺院を去って、コシポル・ガーデンで静養していた。「 ナレンドラ 」とは、若きスワミ・ヴィヴェーカーナンダ。彼は当時、父を亡くし、家計に困窮していた。「 M 」とは、『 ラーマ・クリシュナの福音 』の筆者・マヘンドラナート・グプタ。

ナレンドラが到着した。
ときどき、師は彼を眺めては微笑なさった。
Mにはその日、彼のこの愛弟子への愛は量りしれぬもののように見えた。
彼はMに向かって身ぶりで、ナレンドラは泣いていたのだよ、とお示しになった。
それから、しばらくじっとしておられた。
また身ぶりで、ナレンドラは家からここまでくる道中ずっと泣いていたのだ、とお示しになった。

誰も、ものを言わなかった。

ナレンドラが沈黙を破った。
ナレンドラ 「 私は、きょうはあそこに行こうと考えてまいりました 」
師 「 どこに? 」
ナレンドラ 「 ダクシネシュワルにです。ベルの木の下で火をたいて瞑想しようと思います 」
師 「 いや、火薬庫の役人がそれは許さないだろう。パンチャヴァティはいい場所だ。
多くのサードゥたちがあそこでジャパや瞑想をした。だがあそこはたいそう寒い。それにあの場所は暗くもある 」

またひととき、皆は黙ってすわっていた。

師(ナレンドラに、微笑して)「(法律の)勉強をつづけるつもりはないのか 」
ナレンドラ(師とMを見ながら) 「 今までに学んだことを、全部忘れさせてくれる薬がもし見つかったら、
私はさぞホッとするでしょう 」
やはり部屋の中にいた年長のゴパールが言った。
「 私がナレンドラについてまいります 」と。

カリパダ・ゴーシュがシュリ・ラーマクリシュナにと、ブドウを一箱持ってきていた。
それは師のそばに置いてあった。
師はいくらかをナレンドラに与え、残りを、信者たちが拾うように床の上におまきになった。

夕方だった。
ナレンドラは階下の一室にすわっていた。
彼はタバコを吸いながら、Mに話していた。
他には誰もいなかった。

ナレンドラ 「 私はこの土曜日にここで瞑想していたのですが、
そのときに突然、ハートに奇妙な感じを経験しました 」
M 「 それはクンダリニの目覚めざめだったのです 」
ナレンドラ 「 おそらくそうだったのでしょう。イダーとピンガラーの神経をはっきりと知覚しました。
それでハズラーに、胸にさわってみてくれるように頼みました。
昨日、私は彼(師)にお目にかかって、そのことをお話ししました。
私は申し上げたのです。
『他の人たちは、それぞれにさとりを得ました。私にもどうぞ何かをください。
皆が成功したというのに、私だけがなぜ満たされないままでいるのでございますか!』と 」

M 「 彼は何とおっしゃいましたか 」
ナレンドラ 「 こうおっしゃいました。
『お前はまず、家庭の問題を片づけなければいけないよ。
それが出来てからおいで。何でもあげよう。何が欲しいのかね』と。

私は、『三日間か四日間つづけて、サマーディにひたりきりでいたい、というのが念願でございます。
少量の食物をとりにほんのときたま感覚世界に下りてくるだけで』とお答えしました。
すると、彼がおっしゃるには、
『お前はずいぶん心の小さい人間だね。そんなことよりもっと高い境地があるのだよ。
「在りと在るすべてのものはおん身」──この歌を歌うのはお前ではないか』
と 」

M 「 そうです。彼(師)はつねに、サマーディから下りてくると、
この宇宙、生きもの、および存在するすべてのものになっておられるのは神御自身である、
ということが見えるとおっしゃいます。
イシュワラコティ(ラーマクリシュナによると、神の化身か、化身の一部の性質をもって生まれてくるもの)たちだけが、
そのような境地に達することができるのです。
普通の人間は、サマーディに入ることができるのが精いっぱい、その状態から下りてくることはできません 」

ナレンドラ 「 彼(師)はおっしゃいました。
『家庭の問題を片づけてからおいで。お前はサマーディよりも高い境地に到着するだろう』と。
私は今朝、家に帰りました。
家の者たちは、『なぜ浮浪者のようにうろつきまわっているのか。
法律試験も迫っているのに少しも勉強には身を入れない。あてもなくさまよい歩いて』と言って、怒りました 」

M 「 母君は何かおっしゃいましたか 」
ナレンドラ 「 いいえ、彼女はただ、私にものを食べさせることに一生懸命でした。
私にシカの肉をくれました。私は少しだけ食べました。肉は食べたくなかったのですけれど」
M 「 そしてそれから? 」

ナレンドラ 「 私は祖母のところにある、自分の書斎に行きました。
ものを読もうと努力していますと、勉強するのが非常に恐ろしいことででもあるかのような、強い恐怖心に捉えられました。
私のハートは、内部で苦闘しました。
私はワッと泣きだしました。
生まれてからまだ、あんなに激しく泣いたことはありませんでした。
私は書物をすてて逃げ出しました。
街々を走り抜けました。
靴は足から脱げてしまいましたが、どこで脱げたのかわかりませんでした。
干し草の山を走り抜けたので、全身に干し草をかぶりました。
私はこうして、コシポルまでの道を走り続けたのです 」

ナレンドラは数分間沈黙していたが、やがて話を続けた。

ナレンドラ 「 ヴィヴェーカーチュダーマニを読んでから、私は非常に気落ちしているのです。
その中で、(著者)シャンカラーチャーリヤは、
莫大なタパシャー(行)と幸運とによってはじめて、これら三つのもの、
つまり、人間に生まれること、解脱への願望、および偉大な魂の加護は得られるのだ、と言っています。
私は思いました、『私は間違いなく、この三つを全部得ているのだ。
大きなタパシャーによってまた、解脱への願望を抱いている。
そして大きなタパシャーにより、こんなにも偉大な魂の知遇を得たのだ』と 」
M 「 ああ! 」
ナレンドラ 「 私はもはや、世間には心を惹かれません。
世間に生きる人々と交わっても、楽しいとは思いません。
もちろん、一、二の信者たちとの場合は別ですが 」

ナレンドラはふたたび沈黙した。
強烈な放棄の火が、彼の内部で燃えていた。
彼の魂は、神のヴィジョンを求めて落ち着かないのだった。
彼はまた話をはじめた。

ナレンドラ(Mに)「 あなたは平安を得ていらっしゃる。だが私の魂は落ち着かないのです。
あなたは本当に恵まれていらっしゃる 」

Mは答えず、黙って座っていた。
彼は心中に思った、
「 シュリ・ラーマクリシュナは、人は神に恋こがれなければだめだ、
それで初めて、神の御姿を見ることもできるとおっしゃった 」


日が暮れるとすぐ、Mは二階に行った。
シュリ・ラーマクリシュナは眠っておられた。

『 ラーマクリシュナの福音 』 1024 頁

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by yogabeaware | 2011-05-29 09:35 | ヴィヴェーカーナンダ

透明

エゴを捨てて

クセを捨てて
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くせがなければ透明だ

透明に生きて

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by yogabeaware | 2011-05-20 00:52 | ヨガ的な生き方

神さまの時間

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<神さまの時間を使う>

私が人と会うために心がけていることは、いつも新しい気持ちでその人に会う、
ということです。

私は朝から晩まで、常にたくさんの人に会っています。
ですが、ただ次から次へと漫然と会うのではなく
「この人と私の時間は今がはじまり」と思って、
ひとりひとりとの出会いをとても大切にしています。
疲れているからとか、都合が悪いので明日にしてくださいとか、明後日ならどうでしょう、と
お断りすることは滅多にありません。
この人は今このときに私を必要として来ているのであって、明日になればもう必要でないかもしれないのですから、

「今」受け止めたいと強く思うのです。

それでも、私も一応は、明日はこういう用事があるんですよ、
今こういうことがあるから時間が足りなくて困っているのよ、と
そのときどきの事情を相手に伝えます。
でも、相手はああ、そうですか、というだけで、私の言葉は全然通じません。
それだけ自分の抱えている問題で、頭がいっぱいになっているのでしょう。

このような毎日を送っていますと、もちろん大変疲れますし、時間にも追われます。
でも、そういうふうにして自分の持っている時間を「神さまの時間」として使うと、
神さまは私がさしだした以上の力を与えてくださいます。

嫌だと思いながら人と会うと、疲れもひとしおに感じられます。
そうではなくて、神さまから与えられた喜びの時間として受けとめるよう心がけることで、
疲れもずっと軽く感じられるようになります。
長い間続けてきて、私はそのことに確信を持っています。


 『おむすびの祈り』  佐藤初女さん 著   136p より

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by yogabeaware | 2011-05-20 00:48 | 佐藤初女

慈悲の姿

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<人生を変えた出会い>

Hさんのことをお話しましょう。

Hさんは片腕がないという障害をもっていましたが、
どうしてそうなったのか真相を知る人はいませんでした。
Hさんは、ときどき、歩行もままならないほどお酒に酔ったままの状態で、
司祭館にヴァレー神父さまを訪ねていくときがありました。
はじめは、ゴム紐を売りに、後になってからはお茶を売りにきていたのですが、
お茶を持たずにきてお金だけをもらって帰ることも度々でした。

そのようなHさんを見かねて、
「酒を飲んで教会に来るなんて、不謹慎だ」
と腹を立てる信徒もいました。
それでもヴァレー神父さまはいつも変わらぬ温かいまなざしでHさんを迎え入れ、
帰っていくときは必ず、
「お酒をやめなさいね」
と優しく諭しながら、その後ろ姿を身送っていました。

あるときには、Hさんの泥まみれのズボンを、神父さまが自分のものとはき替えさせてやったこともありました。
神父さまのもう一枚のズボンはクリーニングに出してあったので、替え用がなかった、
と後で神父さまのコックさんから聞いて、私は心をいためました。

ある日のことです。
市役所の保護課の人が神父さまを訪ねてきたところ、司祭館の前に泥酔したHさんが倒れて寝ていました。
市役所の人は、聖なる教会の前で何という醜態を、と思ったのでしょう。
「お前、ここで何をしているんだ」とHさんを激しく叱りました。
その声に、神父さまが静かに出ていらっしゃって、
「その人は私のお客様です」
とおっしゃったそうです。
保護課の方は恐縮しきっていたということでした。

そのようなことを繰り返すうちに、聖堂で祈るHさんの姿が見かけられるようになりました。
Hさんのこのような姿を一体誰が想像したでしょう。
この頃から、Hさんは酒を断つ決心をしました。
根気よく入退院を繰り返し、見ていていじらしいほどの努力を続けました。
そしてとうとう神さまはHさんの祈りに応え、Hさんはついに受洗の恵みに与ることができたのです。

神の子となったHさんは、熱心に教会に通い、身体が回復するに従って軽い農作業を手伝うようになりました。
また、子供たちがかわいいのでと、ガールスカウトやボーイスカウトの活動に、寄付をしてくれたこともありました。

Hさんは、主日には、一時間も前から来て御ミサの始まるのを待っていました。
始まる時間になると、Hさんは片腕と上半身に太い綱を巻き付け、全身を屈曲させて鐘を鳴らします。
その音で御ミサが始まるのです。

教会のために全身全霊を傾けて働くことが、Hさんにとっての生き甲斐でした。
どんな人も心の根底では、「いい人になりたい」と願っているのだと思います。
それなのに生活の状況が苦しかったり、周囲の理解がなかったりすると、
人間は弱いものですから、自分の本当の気持ちとは全く反対の形で、崩れた生活を送ることもあるでしょう。
しかし、Hさんはヴァレー神父さまとの出会いを得て、愛の恵みに触れ、崩れた生活を変えることができたのです。

目立つことをして名声を残すのではなく、真実に生きることが、神父さまが望まれた奉仕でした。
最も尊いことは、自分のかけがいのない大切なものをさしだす心です。
持ち物、時間、能力など、自分にとってかけがいのないものを他者に与えたときに、神さまは必ずそれ以上のもので私たちを満たしてくださいます。




<神さまはひとりひとりの中に>

神父さまの急逝はあまりにも突然やってきました。

奉仕のない人生は意味がない。奉仕には犠牲が伴う。犠牲が伴わない奉仕は真の奉仕ではない

ヴァレー神父さまがこの説教をされたのは、ちょうど大清水学園の創設の準備で奔走されていたときのことでした。
全身全霊でこのことに取り組んでいらっしゃった神父さまは、ご自身にも言い聞かせるような気持ちで、そのことをお話下さったのだと思います。
ですから、それは私の心ばかりではなく、他の信徒の心にも強く響いたのでしょう。
大清水学園は、多くの賛助者を得て創設されたのでした。

神父さまは他にも、
比較的元気な老人のために老人アパートを建て、体が不自由になったら老人ホームに入居できるようにする計画や、
ホームに保育園を隣接させる希望を持っていらっしゃいました。
老人が子供の声を聞くことによって、昔を思い出したり、元気を取り戻せるのではないかとお考えになったのです。
しかし、志半ばで、神父さまは突然お亡くなりになりました。

突然に師を失ってしまった私たち信徒の衝撃は、言葉では言いつくせないほどのものでした。
悲しみと緊張のうちに、お通夜、告別式がとりおこなわれ、そして最後のしのぶ会が終わった後、
誰いうともなく、二十人くらいの人が私の家に集まってきました。

私たちは、失意の中、今後のことについて話い合いました。
そして、神父さまが生前望まれたように生きていくことこそ、師への慰めではないかと皆の意見が一致し、
お互いに勇気づけ、力を合わせていきましょうと誓い合ったのです。

<もし一粒の麦が落ちて死なないならただ一つのまま終わる。しかし死ねば多くの実を結ぶ>
(「ヨハネによる福音書」十二章二十四節)

神さまは神父さまの急逝という苦悩をもって、私たちを、より真実に信仰に生きる道へと目覚めさせてくださったのです。

神父さまが亡くなってからは、それまで神父さまのもとを訪れていた人たちが、私の自宅に来るようになりました。
訪ねてくる方とお会いする度、この人も神父さまのもとに行っていたんだ、この人もと、あらためて神父さまの深い御心に触れ、胸が熱くなる思いでした。

人はひとりでは生きられません。誰かと一緒なら生きられます。
その誰かというのは、実はひとりひとりの中に宿る神さまなんです。

神さまは私たちの目には見えませんし、声も聞こえてこないのですが、
生身の人間、肉体を通して、私たちに働きかけてくださいます。

そのようにして神さまから招かれている私たちが、
お互いの関わりによって癒され、成長していくこと、
それが私たちの生涯にかけられた使命だと思うのです。


 『おむすびの祈り』  佐藤初女さん 著   127p / 130p より
Hさんが体に縄を巻きつけ、体を屈曲させて鐘をならす姿、なみだがあふれます。私もそう生きたい。

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by yogabeaware | 2011-05-19 23:55 | 佐藤初女

佐藤初女さん

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<人のために働く喜び>

人は、自分が満たされて喜びを感じると、
その次には、必ず他人のために何かをしようと、気持ちが変わってくるようです。
人のために働くということは、
私たちが生まれたときに、すでに与えられている天声だということを聞いたことがあります。
本当にそうだと思います。
誰かのために尽くすことによって与えられる心の底からの喜び、
私はそれを”霊的喜び”と呼んでいるのですが、
その霊的喜びを一度体験すると、生きていく上で、これ以上の感動はないと思っています。




<心は無尽蔵にある>

私の進む道をはっきりと示されたのは、ある主日の御ミサの説教でした。

「奉仕のない人生は意味がない。奉仕には犠牲が伴う。犠牲の伴わない奉仕は真の奉仕ではない」
と、私の敬愛するヴァレー神父さまが凛々しく語られたのです。

私は神父様のこの説教に大きく心を揺さぶられました。
この言葉は、それまでの私の生き方に対する問いかけでした。
それまでも、お腹がすいている人がいれば食べさせ、着るものがない人がいれば服をあげ、
ということはしていたのですが、それは自分が無理なくできる範囲でのことでした。

しかし、それではいけないんだ、ある線を一歩越えなければ本当の意味の奉仕ではない、
私は説教を聞きながら、体の中の血が駆け巡るようでした。

「特別な能力も、経済力も持たない、ほんの小さな存在である私に、これ以上何ができるんでしょう」

教会から家に帰る道々、私は神父さまの言葉を繰り返し繰り返し考えていました。
三月の雪解けの季節のことです。
その頃は道路も整備されていなかったので、車の泥はねを気遣って、何度も立ち止まりながら、
ずっとそのことだけを考え続けていました。
そして、ある交差点にさしかかって立ち止まったとき、ハッとひらめいたのです。

それは「心」でした。
心は水が湧き出るように無尽蔵に絶えることがない。
心を与えることは私にもできる。

こう考えついたとき、周囲の風景が突然明るくなったような気がして、私は本当に豊かな気持ちで満たされました。

これをきっかけとして、
私は、「他人を生かすことによって自分も生かされる」ということを実感として受け止められるようになりました。

多くの方に出会い、共に心を通わせ合って生きる、私の新しい人生が始まったのです。


 『おむすびの祈り』  佐藤初女さん 著   70p / 122p より
★映画「地球交響曲・第二番」で強烈な印象を残した、佐藤初女さんが東京で講演をなさいます。
詳しくは小さな森・東京のHP

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by yogabeaware | 2011-05-18 01:39 | 佐藤初女

注意深くなるための方法~「スカ」と「スティル」を体験する

前回のブログには、注意深さとは高度な観察力であり、
それはありのままを見る、あるがままを受け入れることだと書きました。
ブログの最後には、身体を使うヨガ(ハタ・ヨーガ)は、
「観察する」「注意深く生きる」練習のためのたいへん有効なツールだとも書きました。

ハタヨガのいいところは、観察の拠り所・基準があるということです。
それは観察の道しるべとか、着眼点と言ってもいいと思います。
はっきりした基準があることで、注意深く観察することがよりイージーになるのです。



さて、私が本格的にヨガを始めたころ、
先生に「身体を観察してください」とか「呼吸を観察してください」とか言われても、
えー???
イミワカンナーイって感じでした。

シャバーサナで横になったときに「リラックスした身体を観察して」と言われても、
こーゆーことかな、あーゆーことかなと迷ってばかりで、自分のしている行為に自信がない。
あー、まるでリラックスしてない。。。

「意識」という、目に見えないものを使って観察する難しさを、この時はじめて感じました。

その上、ヘチマや朝顔などの変化のある対象物ならまだしも、
自分自身の身体や呼吸を観察する、でしょう?

こんなに身近なものなのに、
実は身近すぎてむずかしい、
んだよよねー



ところで、ヨガの重要な経典のひとつ、パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』では、
アーサナとは二つの重要な質、「スカ(sukha)」と「スティラ(sthira)」を持つものだと論じられています。
この二つの質がポーズの内になければならない、というわけです。
あるポーズがそれが動的であれ、静的であれ、もし快適でないとすれば、
私たちは良い観察者でいられる状態ではありません。
もしそこにスカがなければ、つまり、
あるポーズをとるために自分を無理強いしているとすれば、
それは本当のアーサナではありません。
スカとは、私たちがとても快適で、自分自身を観察できる、ある心の状態のこと、
くつろいでいる状態のこと、これがスカの概念です。
ここで、くつろいでいることは、鈍感を意味してはいません。
それは注意深く、しかもくつろいでいることを意味しているのです。
だからこそ、物事を明せきに見る(観察する)ことができるのです。
スティラは、注意深い堅固さを意味します。
私たちは注意深くあらねばなりません。
うとうととしてはいけないのです。           

スカとは、一つのポーズ内に快適に留まれる能力、スティラとは不動で注意深い(alertness)ということです。                            (T.K.V.デシカチャー) 



私はヨガの先生からスカとスティルの概念を聞いていたし、
『ヨーガ・スートラ』も勉強していていました。
でも、ポーズをとっていても、それをばく然としか理解していなかった。
わかんないからポーズをとりながら無理やり快適だ快適だと呪文を唱えて思いこませている感じ。。。
でもある日、
ある日のこと、
自分の中から湧きあがってくるような自然な振る舞いでヨガのポーズがとれたとき、
理解し始めたのです、
アーサナとは、堂々と、落ち着いて、静寂で、くつろいで、
そしてすべてを見渡している、わかっている、気づいているということを。
アーサナとはごく自然であるということを。
もっとも自分がくつろいで裸んぼでいるということを。
ああこれが自分の源泉の姿なんだということを。
これがあるがまんまだということを。
そしてあとになって考えてみて、ああこれが本質を理解するっていうことなんだなって思いました。
私はあのときアーサナの本質を理解し始めたんだと思う。



からだを動かすヨガを続けていくと、神経や感覚が整い、
いつもの日常生活で感じる以上の、もっと広い世界まで感じられる素地が整います。
心と身体と感覚がよりさまざまなものに反応できる力、キャッチするセンサーが培われます。
そうしてヨガを続けていく過程でごく自然に、
本や他人や社会から教えられた知識を、
身体が、五感が、開いた心が「体験してゆく」、ということが起こるのです。
ハタヨガによってセンサーが進化した身体・五感・心が、
ある日自然に体験していくという感じです。
いや、起こったことを見ていたら体験していた、という感じです。
これが知識が体験となる瞬間、
本当の知識となる瞬間、
本当の知識と出会う瞬間、
真実の知識をいま体験している、という瞬間なのです。



冒頭の、
「身体を使うハタ・ヨーガは、「観察する」「注意深く生きる」練習のためのたいへん有効なツールです」
という本題に戻ります。



私がヨガをする上で長く迷い道にいたのは、
今まで生きてきた人生の体験の中に「スカ」と「スティラ」が無かったか、
その体験を忘れちゃったためだと思われます。

せっかく、
パタンジャリのようなヨガの偉大な先達が声をそろえて言うのです、
ヨガのアーサナとは、くつろいでリラックスして気持ちよくって、
そして堂々としたゆるがないようなバランスがとれていて、
あなたはそれらすべてをとても冴えたまなざしで見渡しているよって。
ヨガアーサナの本質は「スカ」と「スティラ」だよって。

さあ、その道しるべを使いましょう、
「スカ」と「スティラ」というその基準を使いましょう。

私はいくら、観察して、観察してって言われても、その方法がわからなかった。
ただ観察してと言われても、ボワンとしてあいまいだったのだ。
つまりそれは観察の着眼点がわからなかったからだ。
私は、観察の焦点があいまいだったのだ。
だけど、なあんだ、
焦点のピント合わせは既にパタンジャリがやってくれていたじゃあないの!
だから皆さんは私のようにただばく然と観察するのではなく、
パタンジャリのように、
パタンジャリのピントに焦点をあてれば、取りかかりやすく、近道です。
そう、パタンジャリのピントに観察の基準、拠りどころを置いて、
アーサナをしているときも、
呼吸や呼吸法をしているときも、
心や五感を感じているときも、
「スカ」と「スティラ」を基準に。
アーサナをし、呼吸法をし、と同時に、
身体は、呼吸は、心は、「スカ」か?「スティラ」か?と観察するのです。
そのようにして観察していると、
ほんとうだ、アーサナの本質は「スカ」と「スティラ」そのものだ、
と体験する時がやって来ます。
知識を体験する時が。

(次回は、「スカ」と「スティラ」をもう少し具体的に見ていきたいと思います)
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by yogabeaware | 2011-05-16 09:03 | ヨガクラスの内容

「注意深くなる=心の精度を増す」方法~はじめに~「あるがままを受け入れる」

では、前回のブログを受けて、具体的に「注意深さ」を増すというのはどういうことか、
それを書いてみたいと思います


さて、注意深さ = なに?
注意深さから具体的に何の行為を連想しますか?
注意深いとはどういうことでしょう?


一言でいってしまえば、注意深さとは観察する行為だと思います。


では、観察するとはどういうことですか?
化学の実験とか、ヘチマの観察とか思いだしますか?
私は実験が好きじゃなかったのでうろ覚えだけど、
ただ起こること・事実を、ありのままにノートに書きこんでいました。


そう、まず、ありのままに見る・観るということです。


ところで、日常生活でそれはできていますか?
ありのままに見るということ・・・
ありのままに、
朝起きてから寝るまでに起こる自分の感情の波を、
家族の反応や言葉や態度を、
職場での上司のこごとを、
電車内でのひとのふるまいを、
ただ起こること・事実を、
ありのままに見れていますか?自分の思いこみや想像なしに。


もし、科学者の実験に、自分の思いこみや想像が介入していては、
きっと、正しい結果は得られないでしょう。
その思い込みにより、得られる結果のある一側面しか見ることができないでしょう。


それと同じで、私たちの日常生活でも、自らの思いこみや想像や妄想が邪魔をしては、
事実そのものを見ることはできない。
つまり、自分が脚色した、事実のある断片、事実の歪みしか見ていない、
へたすると事実でないことしか見ていないのです。
私たちは、自分にストックされている中の、自分の好きな、または好都合の知識を使って、
毎日毎日あーだこーだと推理、推論している。
推理、推論なんていうと頭いいような感じだけど、
でも、それは、ありのままを観察するという、「真実を見抜く心の力」をなえさせている、
愚かな行為にすぎないのです。


私たちは、科学者に、それも一流の科学者にならないといけませんemoticon-0148-yes.gif


一流の科学者ほど、実験対象にたいする好奇心ただそれだけ(=想像・妄想が無い)で、
過去の実験結果のしがらみ(=常識)も、自分の思いこみから来るイメージ(=期待)も無く
ただ実験を楽しんでいる。
だから次から次へと実験ざんまいで、次から次へとやってくる結果(事実)だけをストックできて、
それら結果やありのままの事実のストックがエッセンス=物事の本質・真実に辿りつかせるのです。
それは自然とやってくる
おのずとやってくる
まさにSPONTANIOUS・・・


でも、私たちは今さら職業として科学者にはなれないし、
日常生活で実験し続けるわけにはいかない。。。
と、ここでヨガが出てくるのです。
>日常生活の時間のまずは一部分を使ってヨガをします。
>大体の人はヨガ・アーサナ(身体を動かすヨガ)をします。
>その時間を使って、「観察する」「注意深く生きる」練習をするのです、
また、しやすく出来ているのです、ヨガって。

(ヨガを使っての具体的な練習は、また次回書きこみたいと思います)
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by yogabeaware | 2011-05-01 10:14 | ヨガクラスの内容