カテゴリ:ラーマクリシュナ( 11 )

わたしの大好きな挿話 1

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「こんな話があるのだよ、聞いておくれ。


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  その牧場には恐ろしい毒ヘビが住んでおり、誰もがそれを恐れて用心していた。 
  ある日のこと、それを知らぬ僧がひとりで牧場を通ろうとするので、牛飼いの少年たちが来て「行かないでください、お坊さま。そちらの牧場には毒ヘビが住んでいるのです」と声をかけた。しかし僧はあわてることなく、「心配するな、坊やたち。わたしはヘビなど恐くはないのだ。なぜならマントラを知っているからね」と言ってスタスタ行ってしまった。少年たちは恐ろしくてその場を動けなかった。
  そうこうしているうちに、ヘビはかま首をもたげて僧のほうへやって来た。僧は間髪をいれず、あるマントラ(聖語)を唱えると、ヘビはミミズにでもなったかのように彼の足下にひれ伏してしまった。僧は話しかけた、「これ、お前はなぜ来る者を傷つけようとするのだ」と。そして「さて、お前に聖なる言葉をひとつ授けよう。それを唱えることで神を愛することを学ぶだろう。そしてついには「彼」をさとり、その荒々しい性格を捨て去るだろう」。
  僧はヘビにマントラを与え、まったく違う生活へと導いた。
  ヘビは頭をさげてたずねた、「師よ、私はどのような修行をしたらよろしいのでしょうか?」
  「このマントラを繰り返し唱えなさい、そしてもうこれ以上誰も傷つけてはならない」
  僧は、また会うことを約束してその地を離れた。

  日が経ち、牛飼い少年たちはヘビがもはや噛もうとしないことに気が付いた。
  そこで彼らは石を投げつけてみた。が、それでもヘビはみじんの怒りもせず、ミミズのようにおとなしかった。
  ある日、少年の一人がヘビに近づき、尾をとって、グルグルと振り回し、何度も地面にたたきつけ、そして放り捨てた。彼は血を吐き、意識を失った。動かなくなったヘビを見た少年たちは、それは死んだと思い行ってしまった。

  その夜おそく、彼は意識を取り戻した。
  ノロノロと、そしてやっとのことで、身体を引きずりながら巣である穴の中へと戻った。骨折したようで、ほとんど動けなかった。
  幾日も過ぎた。
  彼はやせ衰えて骨と皮だけとなった。恐怖のため、日中は外に出ることができなくなったので、夜中にときおり食べるものを探しに出掛けるだけとなった。それに、師である僧からマントラを授与されて以来、彼はすっかり他者を傷つけることはやめていた。そのため土や葉、落ちてきた木の実で命をつないでいたのだ。

  それから一年後、あの僧が来て、ヘビの消息をたずねた。
  少年たちは「死にました」と告げたが、僧は信じなかった。授けたマントラの恩寵を得るまで、ヘビは死なないと知っていたからだ。
  僧はあちこち探しながら、自分が与えた名前でヘビを呼んだ。
  すると師の声を聞いたヘビが穴から這い出してきて、うやうやしく彼の前に頭を下げた。
  「元気にしていたかね?」  
  「はい、私は元気でございます」 
  「しかし、なぜお前はそんなにやせてしまったのだ?」 
  「師よ、あなたは誰も傷つけるなとおっしゃいました。ですから私は葉っぱと果実だけで過ごしてきました。きっとそれでやせてしまったのでございましょう」

  サットワ(純粋性)の性質を育ててきたこのヘビは、もはや誰に対しても腹をたてるということはなかった。だから少年たちが自分を殺そうとしたことなどとっくに忘れてしまっていたのだ。

  師は言った、「食べもののせいだけで、そんなにやせるものか。何か他の理由があるだろう?少し考えてごらん」
  ヘビは、「・・・はい、師よ。今、思い出しました。ある日、少年たちがやってきて、私を地面に叩きつけたのです。ようするに、彼らは無知なのです。どんなに偉大な変化が私の心に起こったか、ということが彼らには理解できなかったのです。私が人を噛むことも、傷つけることも、もう決してないということなど、どうして彼らが知りえましょう」

  「なんということだ!なんという馬鹿者だ、お前は!自分を守るすべを知らないとは!私は『噛むな』とは命じたが、『シューシュー言うな』とは命じなかっただろう? どうしてシューシュー言って彼らをおどさなかったのだ!」


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 それだから、おまえたちも悪い人々にはシューシュー言わなければならないよ。
 彼らがお前たちを害さないように、彼らを恐ろしがらせなければいけない。
 しかしけっして毒を注入してはいけないよ。ひとは他者を傷つけてはならないものなのであるから。」              (ラーマクリシュナの福音 Gospel of sri Ramakrisna)
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by yogabeaware | 2012-07-20 01:10 | ラーマクリシュナ

♪RAMAKRSHNA SHARANAN♪

♪RAMAKRSHNA SHARANAN♪ ♪(辛いことがあったら)シュリ・ラーマクリシュナに避難しよう♪
人生何があっても踊って楽しむのです053.gifインドのお坊さんたちはシンプルで清々しくて明るい056.gifだから好き
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by yogabeaware | 2012-02-05 19:19 | ラーマクリシュナ

「慈悲」って?

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師・ラーマクリシュナの最後の病気のあいだは、
弟子が階段に座って誰も師の部屋に入れないように見張っていたものだった。

ある日、彼は起き上がり、
「私の手と足が焼けつくようにひりひりする。どうか、ガンジス河の水を持って来て私にかけてくれ」
とおっしゃった。
まったく、落ち着きがなかった。

私は「どうなさったのですか?」と尋ねた。

彼は、
「私は何人かの親しい弟子たちと一緒にこの世にひそかにやって来た。
それが今やラームチャンドラが私の名前を広めている。
彼はあらゆる種類の人間をここに連れてきて、彼らに触れて祝福するように頼むのだ。
どれほどの重荷を私は背負わなければならないのだ?
私はこれらの人々の罪を引き受けてこの病気になったのだ。
ごらん。私はこの世にこれ以上とどまらないだろう」
とおっしゃった。

私は、
「いえいえ、あなたは訪問者に会う必要はございませんし、誰かに触れる必要もございません」
と慰めた。
それから私はガンジス河の水をお持ちし、師の手と足を洗った。
すると、師は徐々に落ち着きを取り戻された。

師の身体はとても純粋であり、師は同情に満ち溢れておられ、魂の教育者であった。
彼の御足に触れている間、人々は実に多くのことを願った。
多くの人は師を批判することすらした。
しかし、師はそうした人々の霊的責任も引き受けられた。
医者は師の喉の出血を見て、師が話すのを禁じた。
しかし師は信者のために最後まで話をされた。

ラーマクリシュナとは1800年代に生きたインドの実在の聖者。彼の従者の回想録より、引用した。

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by yogabeaware | 2012-02-03 22:40 | ラーマクリシュナ

私の本当の家は天国にある。ここにはただ休みに来ている

サンスクリット語での古いことわざがあります。
私の本当の家は天国にある。ここにはただ休みにきている
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私はこの世界に休みに、そして遊びに来ているのです。
この世界では、意識を持って、注意を払って、自分の周りで何が起きているか観察するのです。
とてもおもしろいものです。
「 GOD LOVES FUN (シュリ・シュリ・ラビ・シャンカール)」 154 p

小林孝亘「tent」

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by yogabeaware | 2011-06-10 22:46 | ラーマクリシュナ

聖者の慈悲の涙

「 お前は、もし見たいと思うのなら、自分のハートの中に、クリシュナ神さまを見ることができるのだよ 」と、師シュリ・ラーマクリシュナに言われても、
「 私は、クリシュナだとか、何だとかいうようなナンセンスは信じません ! 」
と応酬していたという、若きヴィヴェーカーナンダ、ナレンドラ。
・・・彼はとことん自分で確かめるタイプの人だったのか!e0200565_23553956.jpg

今回のブログに書いた、このナレンドラの述懐・・・
師と弟子との深い結びつき
そしてシュリ・ラーマクリシュナの慈悲のような愛を感じます。
若き聖者の悩み」「若き聖者の決意」も読んでみてください。


礼拝がすむと、ナレンドラとMは話をはじめた。
ナレンドラは、亡きシュリ・ラーマクリシュナにお目にかかったさまざまなシーンを想い出していた。

ナレンドラ 「 まだはじめのころにお訪ねした、ある日のことです。
師はうっとりとした様子で、私におっしゃいました、『 来たね! 』 と。
私は思ったのです、『 なんという驚くべきことだろう!まるで、ずっと前から私を知っているかのご様子だ 』
それから、『 お前は光を見るかね 』とおっしゃいました。
私は、『はい、眠りに入る前に、私は光のようなものが自分のひたいの近くを回転するのを感じます 』
と、お答えしました」

M 「 あなたは今でもそれを見ますか 」

ナレンドラ 「 よく見たものでした。
ある日、ジャドゥ・マリックのガーデンハウスで、師は私に手を触れて何かひとりごとをつぶやかれました。
私は意識を失いました。
このことの影響は、一カ月の間、私のうちに残っていました。
酔ったような感じでした。

私に結婚の話が持ち上がったということをお聞きになったとき、
あのお方はカーリー女神の神像の足をつかまえて、お泣きになりました。
目に涙を浮かべて、母なる神に祈っていらっしゃいました。
『 おお、母よ。どうぞ、何もかも、ひっくり返してください!
ナレンドラをおぼれさせないでください!』 と。

父が死んだあと、私の母や弟たちは食べるものにこと欠きました。
師はある日、アンナダ・グハに会うと、こうおっしゃいました。
『 ナレンドラのお父さんが死んだ。家族はたいそう困窮している。
もし友人たちが金で彼を助けたら、さぞよかろうと思うのだが 』

アンナダが帰ったあとで、私は彼にがみがみと小言を言いました。
『なぜ、あんなことを彼におしゃべりになったのですか 』 と。
このように叱られると、彼は泣いてこうおっしゃいました、
『 ああ! お前のためなら、私は一軒一軒、物乞いをして歩きたいとまで思うのだよ 』

・・・あの愛によって、私たちを屈服おさせになったのですねえ。
そうは思いませんか 」

M 「 まさにその通りです。彼の愛は完全に「 無私 」でした 」
『 ラーマクリシュナの福音 』 1077 頁

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by yogabeaware | 2011-05-30 23:33 | ラーマクリシュナ

愛はしぜんにおこる

(『ラーマクリシュナの福音』757P)
ここでシュリ・ラーマクリシュナは若いブラーミンに話しかけられた。

師 「知識と推理を捨てなさい。バクティを受け入れなさい。バクティだけがエッセンスなのだよ。
ここに来て三日目かね」

ブラーミン(手を合わせて)「そうでございます」

師 「信仰を持ちなさい。神に頼り切るのだ。そうすれば、何一つ自分でする必要はない。
母カーリが、お前に代わっていっさいのことをして下さるだろう。





        ☆       ☆       ☆       ☆       ☆ 
      




私は時々日本ヴェーダンタ協会(インドのラーマクリシュナ・ミッション日本支部に行く。そうすると、
よく協会のインド料理を作ったりして奉仕している、ソフィアさんというインド女性に会う。

その日は私が先に来て瞑想室(シュライン)で座っていた。
しばらくしてソフィアさんが入ってきた。

彼女はなにかマントラを唱えながらひたいを床につけ、祈りをはじめた。
とたんに、ブワッという音とともに彼女が渦巻く濃密なエネルギーになった!
のを感じた。

私は彼女に驚嘆し、そして愛しく身近に感じられた。

・・・と同時に自分が恥ずかしかった。

私の神さまを思う愛・バクティのなんて薄っぺらなことか!!!





        ☆       ☆       ☆       ☆       ☆ 
      




バクティだけがエッセンス 


神に頼り切るのだ。そうすれば、何一つ自分でする必要はない


それを、私はアーサナで体験する。


そう、それは身体を使ったヨガアーサナで体験できるのだ。


知識と推理を捨てなさい


知識や推理を超越する ということ、

それをヨガアーサナをしながらし続けていくと、
何一つ自分でする必要がないことを、
ほんとうは誰でもが体験することができるのだ。

アーサナをするとき

そこで私たちは

からだの筋肉をゆるめると共に、自分の思考や心の力もゆるめようとする

それは、けさ何を食べただとか、これから何をするとか、明日の予定は、子供の試験は・・・
などを忘れようという段階でも

自分は何という名前か、誰の妻か夫か、誰の母か父かを忘れようという段階でもない

自分が男だか女だか、どの場所に生きてるか、どの時代に生きてるかという感覚さえ無いほどのゆるみ

もはや自分が自分ではない

すべては神さまのもの

時間もちからも魂も

すべては私のものではない

私は私のものではない

すべては神さまのもの

私の全能力を使ってもどうにもならない

私にはどうにもすることができない

すべてはどうでもいい

神さま以外のすべてはどうでもいい



        ☆       ☆       ☆       ☆       ☆ 
      



ヨガアーサナを続けていくと、不思議なんだけれども、このような意識が復活し、育っていく。

それを続けていくと、

何一つ自分でする必要はない


という事実を発見していく。

私は今、ヨガアーサナというエクササイズをして身体を動かしているのに、

まったく自分で動いていない感覚

意識ははっきりしているのに、

まったく自分の意思で動いているのではないような

まるで動きに導かれているような

自然発生的な SPONTANIOUSな 動きの感覚

そんな感覚を味わうことが出来る

本当のヨガアーサナを訓練し続けていくと

普通の日常的感覚からいったら、まさに「驚異の!」感覚に出会うことが出来る

そのとき、

何一つ自分でする必要はなく、

大いなる存在が自分に代わっていっさいのことをしている真実を垣間見る

母カーリが、お前に代わっていっさいのことをして下さるだろう


と同時に

肉体は疲れを忘れ
エネルギーはひかり輝き
私は静寂な満足感と平和な気持ちに包まれる

これらは日常の生活では得たことがなかったという発見

いままでは「生きながら死んでいたんだ」

これが「本当に生きている」ということなんだという発見

そして

この道はほんとうなのだということが自明に、明らかになる

知識や推理ではない

自らの体験によって
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by yogabeaware | 2011-03-29 10:54 | ラーマクリシュナ

それらを一人の人間のためにしていると思う必要はない

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(「ラーマクリシュナの生涯」 (上) 421 P)

ある日、彼女は師・ラーマクリシュナのもとに来て、非常にへりくだって訴えた。
神を瞑想しようとして座ると、
世俗の思い、あの人の言葉、この人の顔等々が心に浮かんで落ちつくことができません、と。

師はただちにそのムードを理解なさり、彼女は誰か愛しており、その人の言葉や顔が心に浮かぶのだ
e0200565_22461053.jpgとお知りになった。
そして愛情深くおたずねになった。
「さて、心に浮かぶのは誰の顔かね。お前は誰を愛しているのだい?」

彼女は、自分が今育てている甥の一人を深く愛していると答えた。

師はおっしゃった、

e0200565_9124051.jpg「けっこうだ。食べさせるとか、着させるとか、その子のために何をしてやるにせよ、
この子はゴーパーラであると思ってそれをしなさい。
神がゴーパーラの姿を取ってこの子のうちに宿っておいでになる、
自分が食べさせたり着せたり、お世話をしているのは
<彼>である、と思うのだ。
それらを一人の人間のためにしていると思う必要はないのだよ。
お前のムードの通りの結果が得られるはずだ」
と。



ゴーパーラ Gopala (牛を護る者の意): クリシュナの幼児、牧童時代の名
写真は日本ヴェーダンタ協会でのシュリー・ラーマクリシュナ・デーヴァ聖誕祭(3月20日)の祭壇とプージャー

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by yogabeaware | 2011-03-23 09:14 | ラーマクリシュナ

沈黙を欲したあと

シュリ・ラーマクリシュナは弟子たちに語ります。
わが子よ。神は生きものすべてに宿っておいでになる。しかしお前たちは善い人びととだけ、親しくしたらよいのだ。悪い心の人びとは避けるようにしなければいけない。神はトラの中にもおいでになる。しかしそれだからといってトラを抱くわけにはいくまい。(笑い)お前たちは『トラもやはり神の表れなのに、どうして逃げなければならないのですか』と言うかもしれない。それに対する答えは、お前たちに逃げろと告げる人びともやはり神の現れ~なら、彼らの言うことはきくべきではないか』というものだ。

ひとつ話をきいておくれ。森の中に一人の聖者が住み、大勢の弟子を持っていた。ある日、彼は弟子たちに、すべての生きもののなかに神を見よ、そしてそれを知って、彼らすべての前に頭を下げよ、と教えた。一人の弟子が、犠牲供養の火のたきぎを集めに森に行った。突然、彼は『逃げろ!気違いゾウがくるぞ!』という叫び声をきいた。彼を除く全部は逃げた。彼は考えた、ゾウもやはり別の形で現れた神であると。それならなぜ逃げねばならないのか。彼はじっと立ち、動物の前に頭を下げてそれをたたえる歌をうたい始めた。ゾウ使いは『逃げろ!逃げろ!』と叫んでいた。しかし弟子は動かなかった。ゾウは彼を鼻でつかんでわきに投げ、行ってしまった。

傷ついて出血し、弟子は気を失ったまま地面に横たわっていた。事件をきいた師と兄弟弟子たちは、現場にやって来て彼をアシュラムに運んだ。薬の効き目で彼は間もなく意識をとり戻した。誰かが『君はゾウのくるのを知っていたんだろう?なぜ逃げなかったのか』とたずねた。『でも師が、神ご自身は人間ばかりでなく動物の姿にもなって現れているとおっしゃっただろう。だから、くるのはゾウ神さまだと思って逃げなかったのだ』と彼は言った。これを聞いて師は言った、『そうだ、わが子よ。ゾウ神さまがいらっしゃったというのは本当だ。しかし、ゾウ使い神さまがお前に、そこにいることを止めただろう。すべてのものが神の現れなのに、お前はどうしてゾウ使いの言葉を信用しなかったのだ。お前はゾウ使い神の言葉に耳を傾けるべきだったのだよ』と。(みんな笑う)

聖典に、水は神の一つの姿である、と書いてある。しかし、ある水は祭事に用いるのに適し、ある水は顔を洗うのによく、そしてある水は皿や汚れた布を洗うのにしか使えない。この最後の種類は、飲んだり祭事に使ったりすることはできない。同じように、神はたしかにすべての人~信心深くても不信心でも、正直でも、不正直でも~のハートに宿ってはおいでになるが、人は不信心な、邪悪な、不純な人とつき合ってはいけない。親しくしてはいけない。彼らのある者たちとは言葉ぐらいは交わしてもよいが、ある者たちとはそれもしてはいけない。そのような人びとからは遠ざかっているべきである。

前回のブログに、私はもっと黙っていなければならない、と書いた。
口も、心も、だ。
私が風に揺らめく炎だとしたら、その風を「なぎ」にしなければならないと感じた。
当時、はっきりとした目的はわからなく、だけど、「沈黙~Mouna」をしなければならないと感じた。
すべてが雑念、すべてが雑言に聞こえていた当時は、
げんに、おしゃべりをしたくもなく、友人と交わりたくもなく、ヨガの話も聞きたくなかった。
いらないとこは捨て、自分だけを、最もシンプルな自分を見つけたかった。
シンプルになるために沈黙することが必要だった。
静けさが必要だった。

でも、沈黙してても、やがて心が騒ぎだす。
あの人とあの人は何を楽しそうにしゃべっているのだろう?
ヨガの話かな?
なんかお得な話でもしているのかな?
乗り遅れてしまわないかな?
損してしまわないかな?
あっちはどうかな、こっちはどうかな、ワタシ、独りで、こんなカンジでいいのかな・・・

・・・こうして道を探りながら何かを求める者には「灯」が欲しいのだ。
冒頭のシュリ・ラーマクリシュナと弟子との会話は私に力を添えてくれたものだ。


        ☆       ☆       ☆       ☆       ☆ 
     

そんな時、インド・リシケシからスワミ・ヴィシュワルーパナンダ・ジが来日された。

ゆうこさんの招へいで、一か月以上に渡って、「AWARE ~ 気づきつづけること」をアーサナ、プラナヤマを通じて教えてくださった。

それは、わたしたちが詳細に、注意深く、かつ透明なまなざしで物事に気づき続けることで
その本質を理解できるというものだった。
だから、肉体や心やエネルギー、魂に気づき続ければ、その本質が自ずと見えてくるというものだった。
そしてそれは科学のように、実際に実践できるものであり、体験できることであるということを教えてくれた。
私はヴィスワルーパナンダ・ジの授業を通して「沈黙~Mouna」の重要性を体験した。
それが修行として確立されている理由に納得した。
気づきには観察者(自分)の静寂さが必要、彼の心が常に「なぎ」の状態でないと難しいということを発見した。
気づく、ということと、沈黙・静寂・空・無というものは常にセットなんだ!と発見した。

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       冒頭の引用は「ラーマクリシュナの福音」11Pより。      写真はシュリ・ラーマクリシュナのサマーディ。

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by yogabeaware | 2011-02-25 00:57 | ラーマクリシュナ

酔うのは神への愛だけ

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自分に酔っぱらってはいけない


酔うのは神への愛だけ
         


        ☆       ☆       ☆       ☆       ☆ 
     


今日の瞑想の初めに、
「シヴァ神様、私はまだグルに出会ってないけれども、どうぞ、そんな私を守ってください。導いてください。」
とお願いをした。
今日は一人で瞑想している気分ではなかった。
なんだかハートの後ろに誰かいる、そんな気がした。

神様はわたしたちの避難所です、とラーマクリシュナは言う。
ああ、神様はどんなに慈悲深いことか!
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by yogabeaware | 2011-01-22 22:14 | ラーマクリシュナ

ある日のジャパ瞑想

ジャパをしてたら

途中から自然にあなたの名前を唱えていました

わたしは

いつでも

ただ

うっとりとしていたい

あなたのように

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写真はインド・ベルルマト寺院のシュリ・ラーマクリシュナ像
ジャパとはインドで古代から大切にされてきたサンスクリット語による聖音の復唱

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by yogabeaware | 2011-01-17 08:45 | ラーマクリシュナ