愛はしぜんにおこる

(『ラーマクリシュナの福音』757P)
ここでシュリ・ラーマクリシュナは若いブラーミンに話しかけられた。

師 「知識と推理を捨てなさい。バクティを受け入れなさい。バクティだけがエッセンスなのだよ。
ここに来て三日目かね」

ブラーミン(手を合わせて)「そうでございます」

師 「信仰を持ちなさい。神に頼り切るのだ。そうすれば、何一つ自分でする必要はない。
母カーリが、お前に代わっていっさいのことをして下さるだろう。





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私は時々日本ヴェーダンタ協会(インドのラーマクリシュナ・ミッション日本支部に行く。そうすると、
よく協会のインド料理を作ったりして奉仕している、ソフィアさんというインド女性に会う。

その日は私が先に来て瞑想室(シュライン)で座っていた。
しばらくしてソフィアさんが入ってきた。

彼女はなにかマントラを唱えながらひたいを床につけ、祈りをはじめた。
とたんに、ブワッという音とともに彼女が渦巻く濃密なエネルギーになった!
のを感じた。

私は彼女に驚嘆し、そして愛しく身近に感じられた。

・・・と同時に自分が恥ずかしかった。

私の神さまを思う愛・バクティのなんて薄っぺらなことか!!!





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バクティだけがエッセンス 


神に頼り切るのだ。そうすれば、何一つ自分でする必要はない


それを、私はアーサナで体験する。


そう、それは身体を使ったヨガアーサナで体験できるのだ。


知識と推理を捨てなさい


知識や推理を超越する ということ、

それをヨガアーサナをしながらし続けていくと、
何一つ自分でする必要がないことを、
ほんとうは誰でもが体験することができるのだ。

アーサナをするとき

そこで私たちは

からだの筋肉をゆるめると共に、自分の思考や心の力もゆるめようとする

それは、けさ何を食べただとか、これから何をするとか、明日の予定は、子供の試験は・・・
などを忘れようという段階でも

自分は何という名前か、誰の妻か夫か、誰の母か父かを忘れようという段階でもない

自分が男だか女だか、どの場所に生きてるか、どの時代に生きてるかという感覚さえ無いほどのゆるみ

もはや自分が自分ではない

すべては神さまのもの

時間もちからも魂も

すべては私のものではない

私は私のものではない

すべては神さまのもの

私の全能力を使ってもどうにもならない

私にはどうにもすることができない

すべてはどうでもいい

神さま以外のすべてはどうでもいい



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ヨガアーサナを続けていくと、不思議なんだけれども、このような意識が復活し、育っていく。

それを続けていくと、

何一つ自分でする必要はない


という事実を発見していく。

私は今、ヨガアーサナというエクササイズをして身体を動かしているのに、

まったく自分で動いていない感覚

意識ははっきりしているのに、

まったく自分の意思で動いているのではないような

まるで動きに導かれているような

自然発生的な SPONTANIOUSな 動きの感覚

そんな感覚を味わうことが出来る

本当のヨガアーサナを訓練し続けていくと

普通の日常的感覚からいったら、まさに「驚異の!」感覚に出会うことが出来る

そのとき、

何一つ自分でする必要はなく、

大いなる存在が自分に代わっていっさいのことをしている真実を垣間見る

母カーリが、お前に代わっていっさいのことをして下さるだろう


と同時に

肉体は疲れを忘れ
エネルギーはひかり輝き
私は静寂な満足感と平和な気持ちに包まれる

これらは日常の生活では得たことがなかったという発見

いままでは「生きながら死んでいたんだ」

これが「本当に生きている」ということなんだという発見

そして

この道はほんとうなのだということが自明に、明らかになる

知識や推理ではない

自らの体験によって
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by yogabeaware | 2011-03-29 10:54 | ラーマクリシュナ