沈黙を欲したあと

シュリ・ラーマクリシュナは弟子たちに語ります。
わが子よ。神は生きものすべてに宿っておいでになる。しかしお前たちは善い人びととだけ、親しくしたらよいのだ。悪い心の人びとは避けるようにしなければいけない。神はトラの中にもおいでになる。しかしそれだからといってトラを抱くわけにはいくまい。(笑い)お前たちは『トラもやはり神の表れなのに、どうして逃げなければならないのですか』と言うかもしれない。それに対する答えは、お前たちに逃げろと告げる人びともやはり神の現れ~なら、彼らの言うことはきくべきではないか』というものだ。

ひとつ話をきいておくれ。森の中に一人の聖者が住み、大勢の弟子を持っていた。ある日、彼は弟子たちに、すべての生きもののなかに神を見よ、そしてそれを知って、彼らすべての前に頭を下げよ、と教えた。一人の弟子が、犠牲供養の火のたきぎを集めに森に行った。突然、彼は『逃げろ!気違いゾウがくるぞ!』という叫び声をきいた。彼を除く全部は逃げた。彼は考えた、ゾウもやはり別の形で現れた神であると。それならなぜ逃げねばならないのか。彼はじっと立ち、動物の前に頭を下げてそれをたたえる歌をうたい始めた。ゾウ使いは『逃げろ!逃げろ!』と叫んでいた。しかし弟子は動かなかった。ゾウは彼を鼻でつかんでわきに投げ、行ってしまった。

傷ついて出血し、弟子は気を失ったまま地面に横たわっていた。事件をきいた師と兄弟弟子たちは、現場にやって来て彼をアシュラムに運んだ。薬の効き目で彼は間もなく意識をとり戻した。誰かが『君はゾウのくるのを知っていたんだろう?なぜ逃げなかったのか』とたずねた。『でも師が、神ご自身は人間ばかりでなく動物の姿にもなって現れているとおっしゃっただろう。だから、くるのはゾウ神さまだと思って逃げなかったのだ』と彼は言った。これを聞いて師は言った、『そうだ、わが子よ。ゾウ神さまがいらっしゃったというのは本当だ。しかし、ゾウ使い神さまがお前に、そこにいることを止めただろう。すべてのものが神の現れなのに、お前はどうしてゾウ使いの言葉を信用しなかったのだ。お前はゾウ使い神の言葉に耳を傾けるべきだったのだよ』と。(みんな笑う)

聖典に、水は神の一つの姿である、と書いてある。しかし、ある水は祭事に用いるのに適し、ある水は顔を洗うのによく、そしてある水は皿や汚れた布を洗うのにしか使えない。この最後の種類は、飲んだり祭事に使ったりすることはできない。同じように、神はたしかにすべての人~信心深くても不信心でも、正直でも、不正直でも~のハートに宿ってはおいでになるが、人は不信心な、邪悪な、不純な人とつき合ってはいけない。親しくしてはいけない。彼らのある者たちとは言葉ぐらいは交わしてもよいが、ある者たちとはそれもしてはいけない。そのような人びとからは遠ざかっているべきである。

前回のブログに、私はもっと黙っていなければならない、と書いた。
口も、心も、だ。
私が風に揺らめく炎だとしたら、その風を「なぎ」にしなければならないと感じた。
当時、はっきりとした目的はわからなく、だけど、「沈黙~Mouna」をしなければならないと感じた。
すべてが雑念、すべてが雑言に聞こえていた当時は、
げんに、おしゃべりをしたくもなく、友人と交わりたくもなく、ヨガの話も聞きたくなかった。
いらないとこは捨て、自分だけを、最もシンプルな自分を見つけたかった。
シンプルになるために沈黙することが必要だった。
静けさが必要だった。

でも、沈黙してても、やがて心が騒ぎだす。
あの人とあの人は何を楽しそうにしゃべっているのだろう?
ヨガの話かな?
なんかお得な話でもしているのかな?
乗り遅れてしまわないかな?
損してしまわないかな?
あっちはどうかな、こっちはどうかな、ワタシ、独りで、こんなカンジでいいのかな・・・

・・・こうして道を探りながら何かを求める者には「灯」が欲しいのだ。
冒頭のシュリ・ラーマクリシュナと弟子との会話は私に力を添えてくれたものだ。


        ☆       ☆       ☆       ☆       ☆ 
     

そんな時、インド・リシケシからスワミ・ヴィシュワルーパナンダ・ジが来日された。

ゆうこさんの招へいで、一か月以上に渡って、「AWARE ~ 気づきつづけること」をアーサナ、プラナヤマを通じて教えてくださった。

それは、わたしたちが詳細に、注意深く、かつ透明なまなざしで物事に気づき続けることで
その本質を理解できるというものだった。
だから、肉体や心やエネルギー、魂に気づき続ければ、その本質が自ずと見えてくるというものだった。
そしてそれは科学のように、実際に実践できるものであり、体験できることであるということを教えてくれた。
私はヴィスワルーパナンダ・ジの授業を通して「沈黙~Mouna」の重要性を体験した。
それが修行として確立されている理由に納得した。
気づきには観察者(自分)の静寂さが必要、彼の心が常に「なぎ」の状態でないと難しいということを発見した。
気づく、ということと、沈黙・静寂・空・無というものは常にセットなんだ!と発見した。

e0200565_0393656.jpg

       冒頭の引用は「ラーマクリシュナの福音」11Pより。      写真はシュリ・ラーマクリシュナのサマーディ。

[PR]

by yogabeaware | 2011-02-25 00:57 | ラーマクリシュナ